(続)『アメリカの恩寵:宗教は社会をいかに分かち,結びつけるのか』

 標記,先週土曜日に,宇野重規先生がとってもスマートでシャープな書評を書かれた後ですが,懲りずに言葉を足そうとするわたくしです。前回のエントリで書いた以下について。

アメリカは極端な世俗化はきっとしない。そして世界も。少なくともすぐにはしない。

多民族が暮らすアメリカの例は,私は世界のこれからを見せてくれている一面があると常々思っている。

 前者の世俗化(secularization)予想については... 私は,昨年,やっと論文を出すことができたインドネシアプサントレンでの調査を進める中で(その論文の無料サンプル部分),世界最大のイスラム教徒数を誇りながら,世俗国家(Secular state)とされるその国の宗教と教育の関係について学んだ。

 これからこのパラグラフで述べることは言い訳でもあるが,若い調査者の参考になればと思って書くのだが,実はこの調査は,科研で着手した「多様な資料の活用に対する教諭の認識に関する研究:モロッコでのアクション・リサーチ」という研究の成果なのだ。この科研研究は,2010年度から3年間だったのだが,フランス語が堪能でモロッコ現地の学校に出入りしている研究協力者を約束してくれていた方が私的な事情で協力していただくことが難しくなり,もちろんそれでもJICAを頼るなどしてモロッコで粘って調査を一人で継続していたのだが,2011年にアラブの春が起きて,モロッコに連絡するととにかく緊迫している感じが伝わってくるようになった。モロッコの,日本とはまた異なって私の目にはとても厳しく見えた政治情勢の中で,それでもいろいろ考えて,たくましく教育活動に従事する素敵な人たちとの出会いもすでにあって,フィールドとしての魅力に取りつかれつつあったので(このことは 本学司書課程紀要に書き,少し経団連の雑誌への寄稿でも写真を載せたりした),アラブの春の状況をどう捉え,乗り越えて調査を継続しようかと真剣に考えたが,何よりも,連絡をしている現地のモロッコ人たちがとってもナーバスになりはじめて,外国人との会話が(もともと慎重にされていたが)まったく自由ではなくなっているのが伝わってきた。そこに私は,2011年春に京都から東京に勤務・居住地を変えた。しかも,新しい大学に着任直後に3.11の混乱。全部が重なって,苦渋の選択ではあったが,国内のインドネシア研究者を頼って相談を重ね,調査地をインドネシアに移すことを決めた。科研費獲得に向けてモロッコの教育事情を必死に読んでいたのに,今度はインドネシアということで,またもや必死に調査全体の設計を考え直した。その後,なかなか研究成果がまとめられず,数年間は科研に応募しても通らなかったのは当然の展開だったが,とにかくインドネシアの教育そのものを知るのに時間とエネルギーがかかって,自分が何かを書くなんていう段階に進めなかったのだ。今も,インドネシアの教育がわかっているという感じは,正直に言うと,しない。けれど,そんなこと言っていても科研は公的資金だし,責任逃れみたいな発言なので,ということで,やっと論文にまとめたというわけであった。

 このような経緯でインドネシアの教育と宗教を学んだ際に,さいしょの基本として理解しなければならないように見えたのが, パンチャシラ(Pancasila)という,憲法にも刻まれる,その国家の基本理念の一つとされる,"唯一神への信仰"の存在であった。同国では,イスラム教のほか,プロテスタントカトリックヒンドゥー教,仏教,儒教という六つの公認宗教があり,子どもたちは学校で自らの宗教を届け出てその宗教の宗教教育を学校で受ける(その宗教について学ぶ科目を履修する)(写真は当時の宗教・イスラムの教科書)。ヒンドゥー教,仏教,儒教一神教じゃないと思われ,儒教に至っては宗教でもないと私は思うのだが,もちろん議論はインドネシア国内にもあるらしいのだが,とにかく,そういう制度になっていると。

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 といった経験から,『アメリカの恩寵』の中で,アメリカ合衆国で宗教がコミュニティの中で人びとを多様に結びつけている(しかもそれには流動性がある)さまが描かれているのを読んでも,私には,アメリカでも世界的にも,極端な世俗化は当面,実現しないと思われるのである。人びとが何を求めて宗教に向かうかは私にはわかっていないが(それも計量的に調査したものがあるのかな?),インドネシアで出会ったムスリムたちと私のカトリックのコミュニティでの経験を主たるベースとして思うのは,一度,宗教的な体験をすると,この現世での宗教の切り分け(宗派)はともかく,宗教という存在が生きるよすがとしてどうしても必要に感じられてしまう,ということだ。だから,いかに流動的であっても(教会ショッピングのようなことが広まっても),極端な世俗化には向かわないと思うのである。魚津先生がおっしゃっている,ウィリアム・ジェイムズ(William James)のプラグマティズムの思想の一端(魚津郁夫『 プラグマティズムの思想』筑摩書房,2006(ちくま学芸文庫), 引用は13p.)は私はアメリカ社会に今も受け継がれている。よすがか慰めか。

 ウィリアムジェームズは、たとえどのような観念でも、それを信じることがその人に宗教的な慰めを与えるならば、「その限りにおいて」これを真理としてみとめなければならないという真理観をとなえた。

 

 一方で,今,日本の学校で,教科外活動だった道徳の時間が「特別の教科 道徳」へと転換されていく過渡期にあるが,これまでのところ,私立小・中学校では学校教育法施行規則の定めに従って「宗教をもって道徳に代えることができる」ということになっている。しかも,そのうち,「宗教をもって道徳に代えることができる」が削除されるかもしれないのではということで,道徳と宗教はどう違うか,といった議論が,教会ではぼーっとしている私にも聞こえてくるようになっている。インドネシアが国家を統一しようとした過程での作りあげてきたものを,日本も似たような形で,宗教ではなく「道徳」という形で,今(また),作りあげようとしているということなのか?

 インドネシアや日本は国家が宗教やはたまた道徳について学ぶことを制度化しているということで,アメリカはその点,大きく違うわけですね(でも,日本の義務教育での道徳教育を高く評価している 米国在住ライターが書いたこんな記事もある。)。自立してるんだよ,アメリカ人は。自助,自立--これが厳しく求められるのがアメリカ社会の苦しさでもあるわけで,家族・親族だって,成人した人の自助,自立は当たり前のように要求してくる社会。そこで,宗教や,図書館が,コミュニティのその厳しさを補完していると私は思う。今週,アメリカでは,全米図書館週間ということになっているのだが,そのテーマは,Libraries = Strong Communities強いコミュニティであって,国家ではないことに注意(笑)!

『アメリカの恩寵:宗教は社会をいかに分かち,結びつけるのか』

 さて,この本です。

 春休みは通常より忙しいとわかってはいても,春休み前にはつい期待してしまい,またもやあっという間で,ガッカリしております。今年2月のはじめにこの本を手にし,読んだのですが,このブログに書くというところまで来るのに,1か月半以上かかったという。正直に申しますと,読後の興奮は冷めてしまった。また,こんな厚い本についてブログの1エントリでちょっとつまみ食いみたいなものを書くのは著者・訳者に対してとても失礼な行為なのではという思いも湧いてきた。しかし,読んでいるときに興奮した状態であるにしても,これは何か書いておこうと強く思ったことを記憶しているので,やっぱり思い切って書きます!

 宗教を,計量的に研究するということは,どのくらいされてきたのだろうか。不勉強でわかっていないので,ほぼすべての図表について,へえ!と驚きながら読み進めた。議論はかなり広がりがあって,私個人はいろいろと引っかかった。以下,引用しながら書き進めるが,注は外しているので,それは原典を見てご確認ください。

 まずは,序盤部分。アメリカの現状の概説としては,予想の範囲のようで,それを超えてもいた。やっぱり,日本人の私が出会う人,またライブラリアンや研究者のコミュニティの人からの印象では,週に1度は礼拝に出ている人が40%というのは,私の知っているアメリカよりも多い気がした。そうか,まだまだアメリカ人って宗教的なのねと。

  • (p.14) アメリカ人の83%は宗教に参加していると回答する。40%はほぼ毎週,あるいはそれ以上に宗教礼拝に出席していると答えている。59%は少なくとも毎週祈っている。3分の1は,同じ頻度で聖典を読んでいると答えている。多くのアメリカ人はまた,堅固な宗教的信念を持っている。80%は神が存在することに絶対的な確信を持っている。天国があることに絶対的な確信がある者は60%である。死後の生命についてこれと同じ水準で確信を持っているものは少ないが(52%)。それよりわずかに少ない49%が,地獄の存在を信じている。
  • (p.31) 女性は控えめではあるが一貫して男性よりも宗教的である。2006年の信仰重要性調査によれば,女性は自身をスピリチュアルと述べ,また神の存在を経験したと答える傾向がある。そしてこれは手始めにすぎない。男性よりも女性の方が,正邪は社会の見方よりも,神の定める法に基づくべきだと述べている(後略)
  • (p.32) 図1-4 宗教性は人種と年齢により大きく異なるが,性別や居住の種類,所得による違いは小さい
  • (p.35) これらの全てをふまえると,アメリカ人の中で最も宗教的なタイプはどのような人ということになるだろうか。高齢のアフリカ系アメリカ人女性で,南部の小さな街に住んでいる人ということになる。最も宗教的でない人は?若年のアジア系アメリカ人男性で,北東部の大都市に住んでいる人である。

 ちなみに,これを書いているわたくしめは,日本では超マイナーなカトリック信者の幼児洗礼組で,それなりに自分の宗教については考えてきたが,実際のところ,40代後半になった今,自分のアイデンティティは,なによりも「カトリック信者」であって,正直に言うとそれは「日本人」というアイデンティティよりもずっと強いと自覚している。そんな私にも,カトリックについての記述で違和感のあるところはこの本にほとんどなくて,特にそうだよねと思ったのが第4章「アメリカの宗教性:激震と二つの余震」の中の以下の記述。

  • (p.101) カトリックと主流派プロテスタントで離反の過程は同一ではなかった。カトリックはミサから離れたが,しばしば自分自身をカトリックと呼び続けた一方で,離反した主流派プロテスタントは,自身をメソジストや長老派その他であると呼ぶことを止める傾向があり,皮肉なことに,自身が主流派プロテスタント信仰を持つというアイデンティティを保った者の間での出席水準はそれほど下がらなかった。出席に焦点を当てると,あたかもカトリックは主流派プロテスタントよりも困難な状況にあるように見え,一方でフォーマルな所属に焦点を当てると,まるで主流派プロテスタントの方が困難な状況にあるように見えたが,実際には両方とも困難な状況にあり,その困難は数十年先まで続くものになった。

正直,これって世界的にもそうかもしれないと,経験から思います。教会に行かなくてもカトリック信者を自称する人はいるが,教会に行かないのにキリスト教信者(プロテスタント)と自称する人は,私もたぶん過去に会ったことがない。カトリックの幼児洗礼の恐ろしさか!?

 続く第5章「切り替え・整合・混合」が,この本で私が一番おもしろかった章。こここそがアメリカの話であり,私はこれからの世界の方向性だと思っている。

  • (p.141) 今日のアメリカにおいては,モルモン教福音派キリスト教徒の子どもが成人したとき,その半数以上は親の持っていた信仰を依然として信奉するメンバーである一方で,「白人系」カトリックと主流派プロテスタントで同じことが成り立っているのは半数未満であり,ユダヤ教徒とその他の非キリスト教徒においては5分の1にすぎなかった。
  • (p.152) 結婚した全アメリカ人のおよそ半数が(導入章で定義したような)異なる宗教系統出身の人間と今日では結婚していて,全結婚の3分の1弱は混合状態を今日でも保っているということである(これら二つの値の差は,全結婚のおよそ20%において配偶者の一人がもう一方の宗教に改宗するか,あるいは両者ともに第3の信仰に改宗したということによって証明される)。

 そして,エスニシティの問題もここに関わってきていることが,第9章「多様性,エスニシティと宗教」に進むとわかる。

  • (p.288) 図9-16 民族的アイデンティティの強さは信仰,および宗教の世代間伝達の強さを意味する

この図への導入部には次のようにある。

  • (p.287) 宗教とエスニシティの間にある共生関係が意味するのは,多くのアメリカ人にとって,宗教は共通の民族的背景を持つ人々を特定の教派に,そして教派の中では,特定の会派にまとめていくものだということである。しかしこの共生関係は同時に,教派と会衆全体にわたり,異なるエスニシティを持つ人々を宗教が引き離していたこともまた意味している。大半のアメリカ人にとって,アメリカ史の大半を通じ,礼拝は人種の線にそって分割されてきた。

ところが,カトリックについては少し違うようだ。

  • (p.305) 出席をする会衆を自ら選ぶことが一般のプロテスタントと異なって,カトリックは,少なくとも表向きには,地理的な場所によって小教区に割り当てられる。一般的に,この方針はもはや厳密には実施されていないが,しかし地理的な割り当ては規範として残っており,このことはカトリックにおいてはプロテスタントほどには教会ショッピングがありふれてはいないことを意味している。結果として,小教区境界に白人系とラティーノの両方が含まれているときには,そのような状況により二つの集団が礼拝や会衆活動を共にし,そしておそらくは友情すらもまた形成する機会が提供される。

いやあ,なんとカトリックの抜けづらいことか(笑)。幼児洗礼といい,小教区制といい,すごい仕組みな気がしてきた。

 もうひとつ,私が自分の問題としても,おもしろかったのは,一つ戻って,第8章「女性革命,不平等の増大と宗教」。結論部の以下の分析の総括部分の書きぶりは秀逸。

  • (p.259) アメリカ宗教は,本章で論じた二つの大きな社会変容---ジェンダー平等の成長と,社会経済的平等の消失---にどのように反応してきたのだろうか。われわれの分析してきた一般に保守的な時代において,どちらのケースについても大きなものではないというのが答えである。宗教的な女性は,世俗的な女性と数では同じ程度に仕事に行き,宗教的根本主義という小規模の少数派が平等主義的なジェンダー規範に抵抗する一方で,ますますフェミニスト的な見方をする第二の波が,現代アメリカにおける他の場所とちょうど同じような速さで信徒席も一掃した。社会経済的分離のケースでは,福音派教会が階級を超えた友人関係について一つのニッチを提供してきたように思われるが,しかし全般的に見ると宗教的なアメリカは,以前の時代の信心深いアメリカ人の多くの立場とは異なって,階級不平等を正そうとする公的な取り組みにあまり支持を与えてこなかった。ジェンダー革命の場合と同じように,われわれの社会の階級的分裂の成長に対し宗教的なアメリカ人はほとんど反対することなく順応してきた。性道徳における革命という,非常に多くの宗教的アメリカ人が強烈に反対したものとの顕著な対照は,これら他の二つの社会革命には比較的混乱なく彼らが順応してきたことをとりわけ注目すべきものにしている。

oh, oh, oh...

まあ,前者のジェンダー平等については私個人は,そうよね,よかった,と思うわけだが,階級不平等の是正に反応しなかったという後者は,とても残念な指摘ですよね。どちらについても,宗教的であっても,20世紀の世俗の大きな流れには逆らいきれなかった,というのかな。結局,20世紀はやはり,アメリカでは「宗教」の時代じゃなかった,と言っていい?とはいえ,「締めくくりの考察」に以下のようにあることに,私は合意する。アメリカは極端な世俗化はきっとしない。そして世界も。少なくともすぐにはしない。

  • (p.572-573) アメリカはフランス---すなわち高度に世俗的な社会---になる途上にあると結論づけたくなるかもしれない一方で,そのような結論は時期尚早であるということをわれわれは強調しておく。(中略)米国は宗教的献身と多様性,そして寛容性を結びつけてきたが,それは宗教の異なる---あるいは全く宗教を持たない---アメリカ人が,学校,近隣地域,職場,そして家族の内部さえもの中で平和裡に共存しているからである。アメリカの近年の歴史においては,そのような個人的なつながりが,宗教的な違い,政治的な含みさえ持っているそれによりさもなくばかき立てられたかもしれない熱情を和らげてきた。平和裡な共存というアメリカの恩寵は,宗教的分断を超えて個人的なつながりを作り出そうとわれわれがし続けることに負っているのである。

 多民族が暮らすアメリカの例は,私は世界のこれからを見せてくれている一面があると常々思っている。この本を読み終えた感想も同じ。私は,第5章はすごく夢のあることが語られていたと思った。つまり,人が,(アガペーではなくてエロスにせよ)愛で結びついたときに,越境する強固なつながりが実現する。いろんなことを超えて行くのは愛なんだなと(笑)。もちろん,新しいつながり(ここではカップルや家族などの意味)で選択するものがまた妙な信念(信仰を含めて)につながることも少なくないのでしょうが,それもまた子どもの世代で溶かされて,再び越境が起きる。これが繰り返される。アメリカ社会は,それを実際に過去と今,経験してきている。

 また,宗教ではない形で,さまざまな社会的な課題は取り組まれ,是正されていく可能性が,21世紀の今,見えてきているのではないだろうか。それは,この本で語られる範囲を超えていたと思うが,SNSなりが生み出しつつある,新しいつながり,連帯のきざしが,やっぱりあると思う。分断を強化する一面があっても,連帯も生まれているんじゃないのかなあ。ここに夢をもちたい。

 最後に,「挿話」で私がおもしろいと思ったのは,第2章の「祈りのリクエスト」(p.72-75)。これはキリスト教的な実践じゃないだろうか。かつ,これをオープンに,必ずしも親友同士じゃなくてもやれてしまうのが,私の好きなアメリカかなって気がします。

 

 以上,散らかっていますが,これだけ厚みのある本を,いつもどうり精緻な翻訳で日本語で読めるようにしてくださった柴内康文先生への,心からの感謝をここに記してお伝えしたいと思う。ありがとうございました。まさか,学部長をしながらこんな大部の翻訳ができる人がいるとは思ってもおらず,いただいたとき,ほんとうに衝撃を受けてしまった。もっともっときちんと読み込むべき本なのはわかっていますが...私の能力不足をお許しください(グス)。

 

(2019.4.5追記)これを書き終わった後で,柴内先生のブログのメモを拝読。私が第5章から考えて書いたことっていうのは,以下に関わることだったのかなと。

社会関係資本でもう一つ鍵となる要素には社会的ネットワークがあります。本書では、主に二つの社会的ネットワークが宗教的観点から取り扱われます。一つは会衆(教会)内で形成される信徒間のネットワーク、そしてもう一つは自らの拡大親族・友人ネットワーク(における宗教的多様性)です。少し正確さを犠牲にして言えば、前者はいわゆる「結束型」、後者は「橋渡し型」にあたる側面があります。

このネットワークの組み換えが,「愛」によって起こるということ。ちなみに,柴内先生も以下のように書いておられますが,著者二人の家族も,宗教をどんどん(?)変えている。これぞ多民族国家アメリカだ...

 なお本書の第1章末では、この二人の宗教的背景も語られます(なかなかそういうパーソナルヒストリーを書籍で見ることは少ないと思います)。

 

アーカイブズの最新トレンド2018

 来週11月12日(月)の夕刻に,池袋キャンパスにてこちらを実施いたします。女性史アーカイブズとGap本社の企業アーカイブズの方,お二人をお招きしています。日本ではめずらしいタイプのアーキビストの方たちではないかと思いますので,日本では貴重なお話をおうかがいできるものと思います。もっとも,後者のFindlay氏はかつてはオーストラリアのニューサウスウェールズ州政府の公文書館にお勤めでした。公開シンポジウムは,参加費無料。司書課程の専任教員二名で通訳をして実施します。
 
 このほか,お二人それぞれ別々に,学生たちと交流していただく機会をもちます。もしこちらにも関心をおもちの方がいらしゃいましたら,ぜひ中村までご連絡ください。

Kären M. Mason 氏 Mary Louise Smith Iowa Women's Archives・キュレーター
 2018年11月16日(金)3限 13:15-14:45  
 “Archives in the Community:  Implications for Archivists” (通訳なし;小グループにて実施する予定です) 
Cassie Findlay 氏 Gap Inc.・シニアアナリスト
 2018年11月8日(木)1限 9:00-10:30
 「アーカイブズと記録管理:オーストラリアの視点」(通訳あり;大きめのクラスで実施します)

テュービンゲンとシュトゥットガルトの大学図書館

 昨日,書きましたように,ドイツに来た主な理由は,シュトゥットガルト・メディア大学で開催されているサマースクールの見学でしたが,この3日で,テュービンゲン大学の図書館,シュトゥットガルト・メディア大学の図書館,そしてシュトゥットガルト大学の図書館と3館を見学できたので,簡単なメモを残しておきます。
 テュービンゲン大学,創立1477年…ってほんとかよ!と思ったら,街の本屋さんの屋根に,創業1596年って。どうやらほんとだね(笑)。立教大学で,こちらの大学の4週間のサマースクールに行くというプログラムをしていて,その関係で知った大学なのですが,ドイツに着いた翌日,電車とバスを乗り継いで,行ってみました。ツイート(@RUL_Dean)もしましたけど,とにかくこちらの図書館は混んでいて,学期末ゆえでしょうが,もう大変なことになっていました。席がすべて埋まっている。この図書館,増築をしたのか,違う建物と後からつなげたのか,いくつかのブロックに分かれているのですが,すごくよくできていて,入ってすぐの1階はちょっとおしゃれなカフェテリアでまず,あふれんばかりの人が勉強したりごはん食べたりにぎやかにやっている,そして2階にあがって図書館に少し入っていく雰囲気になると,最初はリラックスした開放的な空間にいくつものソファと職員の方たちがいるサービスデスク。そしてもっと奥に行くとどんどん静かな,書架と勉強机が並ぶスペースへ,と移っていく。建物は古いし,すごく混んでいるんだけれど,とってもいい雰囲気でした。ちょっとだけおしゃべりしながら,(これはたぶんだめなんだけど)タッパーに入れて寮からもってきたフルーツを口に運びながら勉強している学生たちを見て,自由に使っているなあ!と。でも,学期末のこの時期の日曜日の図書館の目的は学習スペースの提供なんだから,いいよね。フルーツはにおいも少ないから,ちょっとくらいなら,いいよ!見て見ぬふりできる。書架の様子,サービスデスクの様子から,図書館サービスは専門職がデザインしているだろうことが推測できた。ドイツのライブラリアンシップはやっぱり底固いなって印象を受けました。

 その次に見たのが,シュトゥットガルト・メディア大学の図書館。こちらの大学,実は,2001年に,100年以上の歴史をもつ印刷に関する専門大学と,1942年創立の図書館学の専門大学が合併してできたそうで。今の立地にはもともと,印刷の大学の方があって,図書館学は今の,かの有名な,シュトゥットガルト市立図書館のあるところにあったとのこと。そこはもうシュトゥットガル中央駅の近くで,ビル街なので,今の,緑あふれる立地,でも交通の便も悪くない,という場所はいいなって私は思いました。こちらの図書館のビルは,ツイートもしたので見ていただけているかもしれませんが,まだ建てて数年ということで,近代的な,新しい建築。図書館の中も,とってもおしゃれで洗練されていて,素敵でした。OPACなんかは,iPadをスタンドに立てている(写真参照。この写真の右側の曲線は2階に上がる階段)。そして,新しい,スキャナ。コピー機はある?と聞いたら,すんごい奥まった隅っこにあって,スキャナの方が利用者が多いのかなって感じがするくらいでした。このスキャナ,USBに落とす形だそうですが,その後,テュービンゲン大学の図書館でも同じ会社のものを何台も見かけました。テュービンゲン大学の図書館では,コピー機は見かけなかった。
 シュトゥットガルト・メディア大学は,新しいのに,ラーニングコモンズにあたるスペースは,別棟にありました。ラーニング・センターと,案内してくださった先生は英語で表現していました。こちらは,いろいろな形の椅子,机を置いて,なるべく自由に学べるような空間にしたとのこと(ピンクの大きなソファは,ここの部屋に置かれていたソファの一つ。小さなお部屋みたいになっている)。それでおしゃべりが活発になりすぎてしまうこともあって,なんと!デシベルを測っているそうな。録音はしていないよ!と強調していましたが,デシベルが高くなりすぎると,誰かが注意するんでしょうか?このラーニングコモンズがある建物,入ってすぐのところに,ラジオ・スタジオがありました。学生がDJをして構内にラジオが流れているそうで。いやぁ,欧米の大学は,ほんとうに,学生の自治を尊重するよなあ!

 そして最後に見たのが,シュトゥットガルト大学の図書館。この三つめに来て,共通点として気がついたのが,テュービンゲン大学の図書館と同様,複本が結構あるなあ,ということ。教科書的なものは複本を躊躇なく入れている模様。そして,サービスデスクは入り口近くの一つしか開いていなくて,もっと奥の方にもデスクはあるけど人がいない(閉じている)ということ。あと,お取り置きの図書は,自分で取っていく形式だということ(写真はシュトゥットガルト大学の棚)。合理化が進んでますわ。人間は,専門的なサービスの設計,提供にあたっていると推測しました。

 さて,あとは,先ほど言及した,市立図書館の見学をしていますが,こちらはツイートにて。サマースクールのことも,ツイートします。ツイートの方が短くて,いちおう,立教大学official twitterなので,慎重にしかツイートできませんが,まあやっぱり,ラクかな。ブログはそれなりに時間かかって。ブログではなにかしらオチをつけようとしているのかな,もしかして私(笑)。いや,ついてないけど。

ドイツに来ております+館長ツイッター開設

 3日前からドイツに来ております。涼しいというほど涼しくもない気が...地球全体が狂っているということか。
 ドイツに来た主な理由は,シュトゥットガルト・メディア大学とゲーテ・インスティテュートによる共同実施の図書館情報学のサマースクールの見学です。参加者は2つの時期で総計45名程度とのことですが,そのうち15名ほどは世界各地に置かれるゲーテ奨学金を出して現地のライブラリアンを送っているそうです。昨日はちゃっかり,一受講生のように参加させてもらっちゃいました。英語を母語とする人がおそらく皆無な教室で,好きなこと(つまり図書館のこと)を各国の現場のリーダーたちとディスカッションするって楽しい。IFLAのような国際会議でも各国からの参加者の発表は聞けるけれど,じっくり,いろんな人の意見を聞いたり,意見を言ってリアクションをもらったりはここまではできない。参加してみて,価値があると思いました。日本人がいることが,クラスに多様性をもたらすなとも思いました。アジアからの参加者はウズベキスタンからの男性と私だけ?そして,奨学金での参加者はどうしても,ドイツから教えてもらう,という雰囲気で参加しています。西欧からの参加者は数名いますが,日本からの私は違う文化圏から来た,しかし一応,先進国的な立場から独自の考えを表明できます。この傾向はIFLAでも感じていましたが,ここではディスカッション等でじっくり意見交換ができるのでさらにそう感じたように思います。
 
 実は,立教大学図書館長のtwitterアカウントが開設されました。これに取り組む初代館長は私ということになりますが,今後,諸外国での図書館訪問についても,twitterでまずは発信していこうと思います。アカウントは,@RUL_Deanです。よろしくお願いいたします。(*- -)(*_ _)ペコリ

『St. Paul's Librarian』2017年度号発行+ブロックチェーンの話の続き

 立教大学司書課程紀要St. Paul's Librarianの2017年度号(No.32)を発行しておりましたが,昨日,学術リポジトリでも公開しました(こちら)。目玉はもちろん,昨年のサンドラ・博士の講演会記録ですね。そして,11月に行った公開シンポジウム「図書館・文書館の最新動向2018」も読みごたえのある記録になっていると思っています。また,LISのオンラインのプログラムを模索しようと基礎研究を続けており,サンドラのサンノゼ州立大学のオンラインプログラムがどうなっているかについての資料も,東山さん(当時は本学学部生,今,院生)に翻訳してもらって掲載しました。さらに,藤原さん(本学院生)には,図書館実習の実施のあり方について,インターネット上の情報を整理してもらいました。二人ともしっかりとまとめてくれて,ありがたいです。その他,多数の学生さんたちにお世話になりました。ありがとうございました。
 
 さて,数日前に書いた,図書館へのブロックチェーン活用についての話なのですが,日本語でどのくらいの情報が手に入るのかなと思って,調べてみました。直接的に図書館関連でというと,今年に入ってから,カレントアウェアネスeで,例えばこんな感じで,記事が出ていますね(この記事の末尾のリンクで,NDLの阿部さんの記事が紹介されていますが,これも参考になりました)。直接,図書館を語っているわけではないのですが,このNTTデータによる説明ページはすごくわかりやすいと思います。将来性まで含めて,よくわかるように書かれていると思いました。
 電子書籍をみなさん,使っているでしょうか?私はKindle Voyageを(愛用とまではいかないが)使っていますが,やっぱりなんというか,近代の印刷物,図書の世界をデジタルでどう表現するかという技術だなと感じるのですね。一方で,ブロックチェーンによって,まったく違う書籍のあり方が出てくるのかなと思わされたのが,この記事です。正直,技術的に私にはわかっていないことが多くて,完全にこの記事を理解できたという感触はもてていないのですが,新しい記録・知識共有のあり方があり得る,ということは少なくともわかりました(笑)。

Google Chromeの拡張機能

 昨日,ブリタニカの百科事典が,グーグルの検索結果の右側(スニペットと言うそうな)に現れてくるというChrome拡張機能についてのニュースを見た(これ)。びっくりして早速入れてみた。これはすごい。
 価値のある情報は有料なんだよ〜!っていうメッセージを,ブリタニカのような伝統的出版者は言いたいわけですが,実際のところ,ググった後,wikipediaまでは見ても,もう一度,Briitanicaを開いてもらうっていうのはけっこうハードルがあるのだと思うのですね。大半の人はしないでしょう(ライブラリアンはするかもしれないが)。なので,google上でこうやって存在感を示して,実感してもらうより他ない,という判断なのでしょう。Chromeウェブストアから入れてぜひ試してみてください。英語で,French Revolutionとかって検索すると,うまく見られます。もちろん,無料ですよ。
 ちなみに,同じChromeウェブストアから,「カーリル」とかって入れて検索してみてください。もうみなさん知っておられるかもしれませんが,「その本、図書館にあります。」というのが出てきます。入れてみてください。Amazonでの無駄遣いが減りますよ(笑)。まあ,図書館の無料貸本屋化を勧めたいわけじゃないのですが,よくできたプログラムだなあと本当に関心しますよ。
 
 今日,最初に紹介したニュースの下の方に,「オンライン百科事典「Everipedia」がブロックチェーン導入で目指すもの」っていう記事へのリンクがあります。これもすごく面白いです。最近,ブロックチェーンの図書館への適用について,考えています。私は技術的にしっかりわかるというところまではいけそうにもないですが,インターネットと同じくらいの革命を起こすと言われている技術ですので,注目しています。ちなみに,昨年,招聘研究員として本学司書課程にいらしてくださったサンドラ・ハーッシュ博士のサンノゼの大学院では,先日,ブロックチェーンに関するオンラインのコンフェレンスを開催したんですね。ここに記録がまとまっていますが,キーノートスピーチだけでも,ごらんになるとすごく刺激を受けられると思います(英語です)。ブロックチェーン技術が図書館や情報管理・情報共有の世界をどう変えるかを想像すると,今の,図書館を含む,社会のあり方がどれだけ塗りかえられるのだろうと,わくわくします。中央集権的な社会(近代国家)のあり方は限界が来ている。21世紀のうちに,テクノロジーが牽引して,後近代の新しい社会への移行がかなり具体的に起きるかもしれないですね。