小玉重夫先生のご講演で〆(ではない,もう1回あります)

 連続講座の講演会4回が終わり,あとは来月の連続講座最終回,まとめの会合を残すところとなりました。第5回については,12月15日のブログの方に書いておきましたので,どうぞご覧いただいて,ぜひご参加ください。
 さて,第4回の小玉重夫先生のご講演については,すでにこだませんせーと足立先生が,学びをブログで報告しておられる。こだませんせーはこちらと,関連でこちら。足立先生はこちら
 ふむふむ。。お二人の視点は別々のもののようですね。たぶん問題意識はいろいろ共通していると思うけれど。さて,私は何を考えていたんだったっけな?--すぐに記録を書かないからこういうことになる!!小玉先生,ごめんなさいごめんなさい。ご講義のノートはとってあるので,必ずどこかで学びをまとめたいと思います。

 それで,このクリスマス,実はわたくしは,中川五郎著『裁判長殿,愛って何?』晶文社,1981.を読んでおりまして,もう,まっとうな人間が普通に考えている(考えるべきだろう)ことを,こんなにすてきなリズムのある文章にのせて書ける五郎さんってすてきだなあって夢中になっていたのですが,この本が提起している問題も,こだませんせーや足立先生が提起している問題も,小玉先生のお話ももちろん,つながっているというか,同じことなんだよね。要するに,すっごくおおざっぱに突き詰めちゃうとだけど,私たちって,自由じゃないなってこと。自由を子どもたちに与え過ぎだっていうくらいのことが言われているでしょう?だけど,自由じゃないんです。だって,私たちは常に,広い意味での政治の中におかれているんだもん。そうそうこんな世の中にわたしたちは投企されちゃっているのよねえ(って学部時代に受けた哲学の授業のあやしい哲学の知識っていうか用語を使ってみる,ふふふ)。
 というわけで,連続講座初回のさ,中尾ハジメ先生の「「知性を自由」を求める教育」っていうタイトルが生きてくるんだぁ!!半分,偶然(幸運)だったんだけど・・ハハハ,無責任ですみません。
 いかに知性を自由にできるかっていうこと,教師も,司書も,大人も,子どもたち自身も。
 いやあ五郎さんはすばらしい!この本が,教員養成の入門書になればいいんじゃない??いかに私たちが不自由か,それに気づいて,じゃあいかに生きようかって,そこからはじまるよね,教育。