図書館専門職養成の高度化を望む
教職大学院の半数が定員割れというニュース(例えば読売新聞のこれ)を見た数日後に、中教審答申が出て、修士課程での教員養成が提案されました。今の一種免許状と専修免許状という形から、基礎免許状と一般免許状という形になるという考えのようです。私は国語科の専修免許状をもっていまして、その取得の過程(課程)を思い出すと、「現在の専修免許状は、一種免許状を有する者が、教科又は教職に関する科目を大学院等において24単位以上修得することとされ、必ずしも実践的指導力の向上に結びつくものとなっていない。」(答申、p.18)にはうなずけてしまう。今の修士課程じゃ、ね〜。教員研修のちょっと高度なの、という感じではないだろうか、とここまで書いて、すみません、私が修士にいたのは、18年とか前です。。あと、何にせよ、修士論文を書いたことのある教師が増えるのは、すばらしいことです。(学生たちが、卒論すら書かないで教採試験に受かって行くので。)
それで。米国で図書館専門職の養成が修士課程で行えていることのすばらしさを私が最も感じるのはどういうところでかというと、実践家がふつうに図書館情報学の研究論文を読みながら、自分の実践を深めようとするというところ、です。また、現場にいて論文を書く人も多い。これは何かというと、「高度かつ効果的な教育実践に係る教育研究が、教職大学院を中心とした修士レベ ルの課程において深められ、現場における実践との往還の中で検証・刷新され、学生や現職教員に還元されるような仕組みの構築が必要である。」(答申、p.8)のことなんですよね。science based practiceというのかな〜。実践と研究の間に乖離が無いと言っていいんだよなあ〜。
そういえば、日本だと、司書教諭課程も司書課程も、現場に出たらほとんど意味がありませんでした、というような批判をときどき聞くのですが、その理由ってなんなんでしょう。米国のライブラリースクールの批判で、そういうのって、記憶のかぎり、聞いたことないのですが。あ、つい先日、芦谷清先生から、竹内悊先生の『忘れ残りの記:メルヴィル・デューイの跡を訪ねて』(2011)という自費出版本をいただいて、読んでいたのですが、竹内先生の米国のライブラリースクールの留学時代の学びについて詳細に書かれていて、そうそう!このレベルで学んだっていう、そういう実感、達成感を共有しているから、ライブラリースクールの卒業生同士は、librarianshipを生きる者同士の一体感があるんだよね〜と改めて。アメリカのライブラリースクールがなんぼのもん?と言っていた人で、実際、留学して帰って来たら、すっかり、librarianshipを生きる者に変わってて、ということもありました。ま、洗脳機関/期間ね、2年間の。
ところで、「基礎免許状」というかたちで現在の教職課程を残すのは、大学に対する配慮?司書資格でも、上級を作って、今の司書資格をそのまま残すのは、同じ構造?
あと、、「新たな学びを展開できる実践的指導力(基礎的・基本的な知識・技能の習得 に加えて思考力・判断力・表現力等を育成するため、知識・技能を活用する学習活動や課題探究型の学習、協働的学びなどをデザインできる指導力)」(答申、p.2)なんてあって、、司書教諭資格もなにも、、学校図書館が置き去りっていうか、、になっていく感じですね。ちょっと最近、わたくし、悲観的に過ぎますでしょうか??いやしかし、痛いですね。