「学校司書」の法制化にあたって考えるべきではないかと思うこと

 すでに1年近く経ってしまっていてまことにお恥ずかしい仕事ぶりですが、2012年12月1日に、塩見昇先生にいらしていただいて、東京大学で開催した「日本の学校図書館専門職員はどうあるべきか:論点整理と展望」の記録ができました。当日の様子を、プロの速記者の方に記録していただいたものに、当日配布資料を加えています。東大の学術リポジトリここで公開していますので、クリックしてみてください。
 さて、今日は、やっぱり、と思って、ちょっと意を決して書きます。「学校司書」という名称が学校図書館法に刻まれるかもしれない状況で、そのことが何をもたらすかについて私が考えていることです。
 衆議院法制局による「学校図書館法の一部を改正する法律案(仮称)骨子案」なるものとして出回っているものを見ると、「学校司書」という名称が学校図書館法に刻まれるということですが、これには、私は、整理すると次の2つの理由から懸念をもっています。

1.学校図書館専門職のあり方の日本のガラパゴス化をさらに進める可能性があること
2.仮に、きちんとした資格制度・雇用条件が定められずに、「学校司書」という名称が法律に刻まれると、「司書」という言葉に対する社会一般からの認知・評価にどのような影響があるかが十分に推測できていないこと

 1.については、過去にいろいろなところで書いてきたと思っているのですが、司書教諭という、すでに学校図書館法第5条に、「学校図書館の専門的職務を掌」るとある職との関係を整理しないで、法制化することはできないので、ここは一定程度整理されると思いますが、それによって、学校図書館の仕事の専門性が、職務の総体が、分割されてしまう。そのようなことになっている他国の例を、私は寡聞にして存じません。将来的に一職種制を目指すのだという考え方を表明する方に何人も会っていますが、さて、立法もですが、行政も、特に日本で、そのように柔軟な動き方がありえるものでしょうか?(図書館専門職が行政上、別の部署で管轄されていることの難しさについて、根本先生が最近『図書館雑誌』に寄せられたご論考から私は改めて学んだように思います(根本彰「司書養成のあり方を問い返す」『図書館雑誌』107巻、9号、2013.9、p.576-579.)。「学校司書」が法制化されれば、まずはその職の確立が目指されることでしょう。そのときには、同じ法律に記されている別の職との差別化は必須の作業ではないでしょうか。
 「学校司書」の法制化は、国際的には、翻訳でも、おそらく混乱をもたらします。これは「いわゆる(so-called)」を付けていたこれまでにも私は何度も感じてきた問題ですが、「司書教諭」の訳語が「teacher-librarian」でよいのか、ということと、「学校司書」の訳語が「school librarian」でよいのか、ということとの問題がさらにはっきりしてくるかと思います。国際的には、この訳語を使って、英語の文章を出して、英文だけ読まれたら、学校図書館関係者にすら、まったく意味不明なものになるだろうと私は考えます。teacher-librarianとschool librarianは、前者はカナダ、後者はアメリカ合衆国でたとえば採用されていると言っていいと思いますが、しかし両国の関係者が集まる場でも基本的にそれらは同じ学校図書館専門職を指すものと受けとめられています。今度の「学校司書」の法制化で、学校司書がいかに規定されるかにこの後の議論はかかっていますが、もし、司書教諭という学校図書館の責任者のもと(下)また/もしくは監督のもと(下)で働くように読めるような文言になれば、school librarianと訳すと嘘になるような気がわたくし個人はいたします。というのは、professionというものは、autonomyをもつ者を英語では思い起こさせると私は考えるからです(専門職の条件については、きちんとした本がたくさん出ています。図書館関係では、薬袋秀樹先生の『図書館運動は何を残したか:図書館員の専門性』(勁草書房、2001)があります)。それを与えられていない者に対して、それを与えられていると考えられる英語の職種名を訳語としてよいものか、悩みます。しつこいようですが、ここは、現在までの「司書教諭」の存在がそのままの状況でという条件で書いていますが、カナダ、アメリカ合衆国の人たちに「学校司書」を説明したら、それは「school library clerk」ではないのかと聞かれるかもしれないと私は思います。その方が、彼らとしては理解しやすいと私は思うからです。そのくらい、学校図書館に2つの専門職なんていう考え方は、英語では、説明も、また理解してもらうことも、困難です。autonomyはどちらの職にあるのか、が問われましょう。
 国際的な動向をふまえてさらに書くと、学校図書館専門職の国際的な標準化への参加や養成における単位互換等が困難になる恐れが、学校図書館の専門性を分割し解体することには、ついてきます。仮に、現在の養成制度が不十分でも、単一専門職ならばその高度化ということで分かりやすいですが、二職種となった場合にはまずはその国内の状況を説明して理解してもらう作業が必要なのでしょうね(まあこれは過去にもso-calledが存在している状況を説明してなかなか理解してもらえずにきたことですが、理解してもらえない状況で、養成の標準化にいっしょに取りくむという話に行き着けるのかどうか)。
 さて、2については、司書"教諭"が専門的職務を掌るという学校図書館法の既存の規定を一切いじらずに、「学校司書」を法制化した場合、「司書」という言葉について、社会一般からの見方が、どのようになるか、予想するのが私は怖いです。現在、学校図書館に非正規で働く職員の方たちに対して、地方自治体の多くは、「学校司書」という名称は使っていません(それこそが自治体のある種の見識だったかもしれません)。「読書指導員」等々、求められる職務、職の位置づけ、もしかしたら待遇をも反映した、さまざまな名称が用いられてきました。これらの学校図書館の職をぜんぶひっくるめる呼称として、今回、「学校司書」が法律に刻まれようとしているのだと私は理解していますが、その理解が仮にあたっているとして、それは果たしてどのような「司書」という言葉に対する社会的な認知・評価を呼ぶでしょうか。また、図書館法に定められた、公共「図書館の専門的事務に従事する」ところの「司書」との関係は、どのように社会一般の人たちから見えるでしょうか。「司書」という、"書を司る"という名称にほんとうに愛着をもってきた、こだわってきた私は、「司書」が真の専門職として日本で認められてほしいと思いますし、その方向でポジティブな影響を見込める関係法制の改定を心から望んでいます。
 改めて今、「司書教諭」との関係をきちんと整理することなく、「学校司書」という名称を法制化することに、私はやはり大きな懸念をもっていることを表明せざるを得ません(ここは法制化時点できっとされるとは思っていますが)。さらに進んで、仮に関係をきちんと整理したうえでも、「司書教諭」と別に、新たに「学校司書」という名称の職を学校図書館法に規定することにも、懸念をもっていると、やはり正直に表明すべきでしょう。仮に、学校図書館法の司書教諭に関する規定は一切変更せず、「学校図書館の専門的職務を掌」る、そのもとで働く人について法制化するのだとしたら、名称について、それが法に刻まれることの影響を、私が懸念するほどのことはないのかどうなのか、それ以外にもポジティブなものネガティブなもの、どんな影響が考えられるのか、よく検討したうえで、法制化してほしいと思います。
 今の骨子案のままの法制化がもたらすものについてだけでなく、もちろん、この部分が実現すればこちらの部分はこれでよい、とかいったことを個別具体的に考えてみる必要があると思います。養成制度がこのようになるのならば、「学校司書」という名称でよい、とか、そういうことです。私は、学校図書館に"人"をというスローガンについて、いつかその"人"としてきたことの意味、もたらしたものの歴史的な検証がされるだろうと思っています。また、<専任・専門・正規>という要望が行政・立法の側からみてなにか実現味に乏しく思われてきたらしいことについて、今こそ、よく考えなければならないのではないかと思います。「(質問)専任司書教諭設置について」に対して河村建夫氏(子どもの未来を考える議員連盟会長)がどう答えているか。河村氏のこのウェブページの文章を読むと、悲しくなりますが、いっぽうで政治家の考え方や行政の現実の理解も少しだけ進むような気が私はします。このような広い視野をもった人が、学校図書館をどう考えているのか、学校図書館の職員問題をどう扱おうとしているのか、こうした政治家のほかに、行政の関係者も多くいるわけですので、わたくしたち学校図書館の、学校教育の、また図書館の関係者が、(もっとも狭い意味でですが)当事者として、なにを発言し、要望していくべきなのか、現実をよく見つめた上で、考え、行動しなければならないと思います。いっぽうで、河村氏がこのanswerを書いたときから、日本の教育も変わっていますし、さらなる変化のきざしもみえていると思います。真の学校図書館専門職の実現が、これからの日本で絶望的であるとは私は思いません。