「図書館の自由」と学校図書館の話もう少し

 前回のエントリで、日本の学校図書館関係者による図書館の自由の"偏"重が戦後の学校図書館史に及ぼした影響について示唆した。そのことをつらつら考えていたら、勤務先の修士論文の公開審査会で、堀尾輝久先生の国民の教育権論について取りあげたものがあり、興味深く発表と質疑応答を聞いた。
 堀尾先生のことは、私の世代(40代デス)から上の教育学を学んだ多くの人にとって、勝田守一先生、宮原誠一先生、宗像誠也先生に続いて、誰もが何かしらは読んだことがあって、胸を熱くしたことがあって、というような方だと思う。私にとっては、『日本の教育』(東京大学出版会, 1994)は院生時代に読んだものの中でも、とても印象に残っている一冊である。しかしながら、不勉強な私は、堀尾先生のかの有名な「国民の教育権論」について、学校図書館とのからみで、真剣に批判的に考えたことがなかった。だが、「国民の教育権論」の議論は、学校図書館における「図書館の自由」を議論する際には、きちんとおさえておかなければいけないのではないかという気がしてきた。(あっ、渡邊重夫先生などが、すでにされているのを私が不勉強で見過ごしていたら、まことに申しわけないことです。そして恥ずかしいことです。)
 日本の学校図書館関係者の中に、「図書館の自由」や「学習権」を声高に言う人は今もたぶん少なくないけれど、自分が日本の戦後史の思想大系のどこにどう影響を受けてきているのか、また「図書館の自由」や「学習権」の思想的背景にも興味をもたないと、外から見て、ほんとうにそれらを軸に専門職の理論化をし主張する覚悟があるのか、疑わしく見えているのではないかという気がする。竹内洋先生が戦後の教育学者の欺瞞について『革新幻想の戦後史』(中央公論新社, 2011)に手厳しく書いているが、このような本を読まなくとも、今の大学生たちと話していると、彼らはそうした教育学者の欺瞞に気がついている(誤解しているのかもしれない)。もっとも、私のころも、教育学を専攻したいと思った私のような輩以外はそうだったのかもしれないが。
 ちなみに、公立図書館との関係での「図書館の自由」の戦後史については、福井佑介さんが、昨年、『図書館の倫理的価値「知る自由」の歴史的展開』(松籟社)を出しておられるので、これは必読でございましょうね。こちらでは、日本図書館協会だけでなく、図書館問題研究会も検討の対象になっている。それにしても、改めて、やっぱり戦後図書館史の研究書が増えてきているね!

 ところで別件というのか、、わたくしの愛読誌であるUPの最新号(No.520)の冒頭が、「有識者会議の濫設が意味するもの」(p.1-5)という、政治学の新藤宗幸先生による文章であった。この中ではいくつかの事例が言及されているが、国交省の例に関わって、次のような記述があって、ちょっと驚いてしまった。

 有識者会議の設置は過去の不作為への取り繕いなのか。それとも、堂々と建築行政を担ってきた官僚機構の能力の低下を物語っているのだろうか。いまはそのどちらとも断言するつもりはないが、全省的に人的資源を動員し行政のイノベーションをはたすことこそ、行政責任の全うであるといわねばなるまい。

有識者会議というものは、私にとっては、行政が外部の知見を取り入れるための装置のひとつとして、パブリックコメントの募集と合わせて、広められてきているものだと思ってきたからだ。行政学者の議論を追ったこともなかった。
 新藤先生は最後に、以下のように、行政、官僚機構の重要性を指摘している。

 政策や事業の実施にあたっては外部の知見を必要とする。しかしそれは、まず人的資源においても情報量においても「卓越」した官僚機構が、積極的な問題発見と創意ある政策立案に努めたうえでのことだ。有識者会議の濫設は行政への信頼性を損ないかねない。

 なんだか、、、新鮮です!
 えっと、このコーナーは「行政責任を考える1(新連載)」となっていて、どうやら次号に続くようです。楽しみです。ちなみに、今号では、佐藤康宏先生の「お笑い最高裁」(p.26-27)も痛快。夫婦別姓訴訟の話。日本美術史の先生ということですけれど、UPの面白いところは、こういう、専門分野と違う分野に、専門分野を極めた先生が意見しているところ。すごくいいです。
 行政との連携ということで言うと、先日、『静かなる革命へのブループリント: この国の未来をつくる7つの対話』(宇野常寛編著, 2014)を読んでいたら、駒崎弘樹さんがすごく前向きで、印象的だった。とある官僚さんが、駒崎さんを追いかけてきてくれて胸襟を開いてくれたような話もあって、ちょっといいカンジ。