『アメリカの恩寵:宗教は社会をいかに分かち,結びつけるのか』

 さて,この本です。

 春休みは通常より忙しいとわかってはいても,春休み前にはつい期待してしまい,またもやあっという間で,ガッカリしております。今年2月のはじめにこの本を手にし,読んだのですが,このブログに書くというところまで来るのに,1か月半以上かかったという。正直に申しますと,読後の興奮は冷めてしまった。また,こんな厚い本についてブログの1エントリでちょっとつまみ食いみたいなものを書くのは著者・訳者に対してとても失礼な行為なのではという思いも湧いてきた。しかし,読んでいるときに興奮した状態であるにしても,これは何か書いておこうと強く思ったことを記憶しているので,やっぱり思い切って書きます!

 宗教を,計量的に研究するということは,どのくらいされてきたのだろうか。不勉強でわかっていないので,ほぼすべての図表について,へえ!と驚きながら読み進めた。議論はかなり広がりがあって,私個人はいろいろと引っかかった。以下,引用しながら書き進めるが,注は外しているので,それは原典を見てご確認ください。

 まずは,序盤部分。アメリカの現状の概説としては,予想の範囲のようで,それを超えてもいた。やっぱり,日本人の私が出会う人,またライブラリアンや研究者のコミュニティの人からの印象では,週に1度は礼拝に出ている人が40%というのは,私の知っているアメリカよりも多い気がした。そうか,まだまだアメリカ人って宗教的なのねと。

  • (p.14) アメリカ人の83%は宗教に参加していると回答する。40%はほぼ毎週,あるいはそれ以上に宗教礼拝に出席していると答えている。59%は少なくとも毎週祈っている。3分の1は,同じ頻度で聖典を読んでいると答えている。多くのアメリカ人はまた,堅固な宗教的信念を持っている。80%は神が存在することに絶対的な確信を持っている。天国があることに絶対的な確信がある者は60%である。死後の生命についてこれと同じ水準で確信を持っているものは少ないが(52%)。それよりわずかに少ない49%が,地獄の存在を信じている。
  • (p.31) 女性は控えめではあるが一貫して男性よりも宗教的である。2006年の信仰重要性調査によれば,女性は自身をスピリチュアルと述べ,また神の存在を経験したと答える傾向がある。そしてこれは手始めにすぎない。男性よりも女性の方が,正邪は社会の見方よりも,神の定める法に基づくべきだと述べている(後略)
  • (p.32) 図1-4 宗教性は人種と年齢により大きく異なるが,性別や居住の種類,所得による違いは小さい
  • (p.35) これらの全てをふまえると,アメリカ人の中で最も宗教的なタイプはどのような人ということになるだろうか。高齢のアフリカ系アメリカ人女性で,南部の小さな街に住んでいる人ということになる。最も宗教的でない人は?若年のアジア系アメリカ人男性で,北東部の大都市に住んでいる人である。

 ちなみに,これを書いているわたくしめは,日本では超マイナーなカトリック信者の幼児洗礼組で,それなりに自分の宗教については考えてきたが,実際のところ,40代後半になった今,自分のアイデンティティは,なによりも「カトリック信者」であって,正直に言うとそれは「日本人」というアイデンティティよりもずっと強いと自覚している。そんな私にも,カトリックについての記述で違和感のあるところはこの本にほとんどなくて,特にそうだよねと思ったのが第4章「アメリカの宗教性:激震と二つの余震」の中の以下の記述。

  • (p.101) カトリックと主流派プロテスタントで離反の過程は同一ではなかった。カトリックはミサから離れたが,しばしば自分自身をカトリックと呼び続けた一方で,離反した主流派プロテスタントは,自身をメソジストや長老派その他であると呼ぶことを止める傾向があり,皮肉なことに,自身が主流派プロテスタント信仰を持つというアイデンティティを保った者の間での出席水準はそれほど下がらなかった。出席に焦点を当てると,あたかもカトリックは主流派プロテスタントよりも困難な状況にあるように見え,一方でフォーマルな所属に焦点を当てると,まるで主流派プロテスタントの方が困難な状況にあるように見えたが,実際には両方とも困難な状況にあり,その困難は数十年先まで続くものになった。

正直,これって世界的にもそうかもしれないと,経験から思います。教会に行かなくてもカトリック信者を自称する人はいるが,教会に行かないのにキリスト教信者(プロテスタント)と自称する人は,私もたぶん過去に会ったことがない。カトリックの幼児洗礼の恐ろしさか!?

 続く第5章「切り替え・整合・混合」が,この本で私が一番おもしろかった章。こここそがアメリカの話であり,私はこれからの世界の方向性だと思っている。

  • (p.141) 今日のアメリカにおいては,モルモン教福音派キリスト教徒の子どもが成人したとき,その半数以上は親の持っていた信仰を依然として信奉するメンバーである一方で,「白人系」カトリックと主流派プロテスタントで同じことが成り立っているのは半数未満であり,ユダヤ教徒とその他の非キリスト教徒においては5分の1にすぎなかった。
  • (p.152) 結婚した全アメリカ人のおよそ半数が(導入章で定義したような)異なる宗教系統出身の人間と今日では結婚していて,全結婚の3分の1弱は混合状態を今日でも保っているということである(これら二つの値の差は,全結婚のおよそ20%において配偶者の一人がもう一方の宗教に改宗するか,あるいは両者ともに第3の信仰に改宗したということによって証明される)。

 そして,エスニシティの問題もここに関わってきていることが,第9章「多様性,エスニシティと宗教」に進むとわかる。

  • (p.288) 図9-16 民族的アイデンティティの強さは信仰,および宗教の世代間伝達の強さを意味する

この図への導入部には次のようにある。

  • (p.287) 宗教とエスニシティの間にある共生関係が意味するのは,多くのアメリカ人にとって,宗教は共通の民族的背景を持つ人々を特定の教派に,そして教派の中では,特定の会派にまとめていくものだということである。しかしこの共生関係は同時に,教派と会衆全体にわたり,異なるエスニシティを持つ人々を宗教が引き離していたこともまた意味している。大半のアメリカ人にとって,アメリカ史の大半を通じ,礼拝は人種の線にそって分割されてきた。

ところが,カトリックについては少し違うようだ。

  • (p.305) 出席をする会衆を自ら選ぶことが一般のプロテスタントと異なって,カトリックは,少なくとも表向きには,地理的な場所によって小教区に割り当てられる。一般的に,この方針はもはや厳密には実施されていないが,しかし地理的な割り当ては規範として残っており,このことはカトリックにおいてはプロテスタントほどには教会ショッピングがありふれてはいないことを意味している。結果として,小教区境界に白人系とラティーノの両方が含まれているときには,そのような状況により二つの集団が礼拝や会衆活動を共にし,そしておそらくは友情すらもまた形成する機会が提供される。

いやあ,なんとカトリックの抜けづらいことか(笑)。幼児洗礼といい,小教区制といい,すごい仕組みな気がしてきた。

 もうひとつ,私が自分の問題としても,おもしろかったのは,一つ戻って,第8章「女性革命,不平等の増大と宗教」。結論部の以下の分析の総括部分の書きぶりは秀逸。

  • (p.259) アメリカ宗教は,本章で論じた二つの大きな社会変容---ジェンダー平等の成長と,社会経済的平等の消失---にどのように反応してきたのだろうか。われわれの分析してきた一般に保守的な時代において,どちらのケースについても大きなものではないというのが答えである。宗教的な女性は,世俗的な女性と数では同じ程度に仕事に行き,宗教的根本主義という小規模の少数派が平等主義的なジェンダー規範に抵抗する一方で,ますますフェミニスト的な見方をする第二の波が,現代アメリカにおける他の場所とちょうど同じような速さで信徒席も一掃した。社会経済的分離のケースでは,福音派教会が階級を超えた友人関係について一つのニッチを提供してきたように思われるが,しかし全般的に見ると宗教的なアメリカは,以前の時代の信心深いアメリカ人の多くの立場とは異なって,階級不平等を正そうとする公的な取り組みにあまり支持を与えてこなかった。ジェンダー革命の場合と同じように,われわれの社会の階級的分裂の成長に対し宗教的なアメリカ人はほとんど反対することなく順応してきた。性道徳における革命という,非常に多くの宗教的アメリカ人が強烈に反対したものとの顕著な対照は,これら他の二つの社会革命には比較的混乱なく彼らが順応してきたことをとりわけ注目すべきものにしている。

oh, oh, oh...

まあ,前者のジェンダー平等については私個人は,そうよね,よかった,と思うわけだが,階級不平等の是正に反応しなかったという後者は,とても残念な指摘ですよね。どちらについても,宗教的であっても,20世紀の世俗の大きな流れには逆らいきれなかった,というのかな。結局,20世紀はやはり,アメリカでは「宗教」の時代じゃなかった,と言っていい?とはいえ,「締めくくりの考察」に以下のようにあることに,私は合意する。アメリカは極端な世俗化はきっとしない。そして世界も。少なくともすぐにはしない。

  • (p.572-573) アメリカはフランス---すなわち高度に世俗的な社会---になる途上にあると結論づけたくなるかもしれない一方で,そのような結論は時期尚早であるということをわれわれは強調しておく。(中略)米国は宗教的献身と多様性,そして寛容性を結びつけてきたが,それは宗教の異なる---あるいは全く宗教を持たない---アメリカ人が,学校,近隣地域,職場,そして家族の内部さえもの中で平和裡に共存しているからである。アメリカの近年の歴史においては,そのような個人的なつながりが,宗教的な違い,政治的な含みさえ持っているそれによりさもなくばかき立てられたかもしれない熱情を和らげてきた。平和裡な共存というアメリカの恩寵は,宗教的分断を超えて個人的なつながりを作り出そうとわれわれがし続けることに負っているのである。

 多民族が暮らすアメリカの例は,私は世界のこれからを見せてくれている一面があると常々思っている。この本を読み終えた感想も同じ。私は,第5章はすごく夢のあることが語られていたと思った。つまり,人が,(アガペーではなくてエロスにせよ)愛で結びついたときに,越境する強固なつながりが実現する。いろんなことを超えて行くのは愛なんだなと(笑)。もちろん,新しいつながり(ここではカップルや家族などの意味)で選択するものがまた妙な信念(信仰を含めて)につながることも少なくないのでしょうが,それもまた子どもの世代で溶かされて,再び越境が起きる。これが繰り返される。アメリカ社会は,それを実際に過去と今,経験してきている。

 また,宗教ではない形で,さまざまな社会的な課題は取り組まれ,是正されていく可能性が,21世紀の今,見えてきているのではないだろうか。それは,この本で語られる範囲を超えていたと思うが,SNSなりが生み出しつつある,新しいつながり,連帯のきざしが,やっぱりあると思う。分断を強化する一面があっても,連帯も生まれているんじゃないのかなあ。ここに夢をもちたい。

 最後に,「挿話」で私がおもしろいと思ったのは,第2章の「祈りのリクエスト」(p.72-75)。これはキリスト教的な実践じゃないだろうか。かつ,これをオープンに,必ずしも親友同士じゃなくてもやれてしまうのが,私の好きなアメリカかなって気がします。

 

 以上,散らかっていますが,これだけ厚みのある本を,いつもどうり精緻な翻訳で日本語で読めるようにしてくださった柴内康文先生への,心からの感謝をここに記してお伝えしたいと思う。ありがとうございました。まさか,学部長をしながらこんな大部の翻訳ができる人がいるとは思ってもおらず,いただいたとき,ほんとうに衝撃を受けてしまった。もっともっときちんと読み込むべき本なのはわかっていますが...私の能力不足をお許しください(グス)。

 

(2019.4.5追記)これを書き終わった後で,柴内先生のブログのメモを拝読。私が第5章から考えて書いたことっていうのは,以下に関わることだったのかなと。

社会関係資本でもう一つ鍵となる要素には社会的ネットワークがあります。本書では、主に二つの社会的ネットワークが宗教的観点から取り扱われます。一つは会衆(教会)内で形成される信徒間のネットワーク、そしてもう一つは自らの拡大親族・友人ネットワーク(における宗教的多様性)です。少し正確さを犠牲にして言えば、前者はいわゆる「結束型」、後者は「橋渡し型」にあたる側面があります。

このネットワークの組み換えが,「愛」によって起こるということ。ちなみに,柴内先生も以下のように書いておられますが,著者二人の家族も,宗教をどんどん(?)変えている。これぞ多民族国家アメリカだ...

 なお本書の第1章末では、この二人の宗教的背景も語られます(なかなかそういうパーソナルヒストリーを書籍で見ることは少ないと思います)。