(続)『アメリカの恩寵:宗教は社会をいかに分かち,結びつけるのか』

 標記,先週土曜日に,宇野重規先生がとってもスマートでシャープな書評を書かれた後ですが,懲りずに言葉を足そうとするわたくしです。前回のエントリで書いた以下について。

アメリカは極端な世俗化はきっとしない。そして世界も。少なくともすぐにはしない。

多民族が暮らすアメリカの例は,私は世界のこれからを見せてくれている一面があると常々思っている。

 前者の世俗化(secularization)予想については... 私は,昨年,やっと論文を出すことができたインドネシアプサントレンでの調査を進める中で(その論文の無料サンプル部分),世界最大のイスラム教徒数を誇りながら,世俗国家(Secular state)とされるその国の宗教と教育の関係について学んだ。

 これからこのパラグラフで述べることは言い訳でもあるが,若い調査者の参考になればと思って書くのだが,実はこの調査は,科研で着手した「多様な資料の活用に対する教諭の認識に関する研究:モロッコでのアクション・リサーチ」という研究の成果なのだ。この科研研究は,2010年度から3年間だったのだが,フランス語が堪能でモロッコ現地の学校に出入りしている研究協力者を約束してくれていた方が私的な事情で協力していただくことが難しくなり,もちろんそれでもJICAを頼るなどしてモロッコで粘って調査を一人で継続していたのだが,2011年にアラブの春が起きて,モロッコに連絡するととにかく緊迫している感じが伝わってくるようになった。モロッコの,日本とはまた異なって私の目にはとても厳しく見えた政治情勢の中で,それでもいろいろ考えて,たくましく教育活動に従事する素敵な人たちとの出会いもすでにあって,フィールドとしての魅力に取りつかれつつあったので(このことは 本学司書課程紀要に書き,少し経団連の雑誌への寄稿でも写真を載せたりした),アラブの春の状況をどう捉え,乗り越えて調査を継続しようかと真剣に考えたが,何よりも,連絡をしている現地のモロッコ人たちがとってもナーバスになりはじめて,外国人との会話が(もともと慎重にされていたが)まったく自由ではなくなっているのが伝わってきた。そこに私は,2011年春に京都から東京に勤務・居住地を変えた。しかも,新しい大学に着任直後に3.11の混乱。全部が重なって,苦渋の選択ではあったが,国内のインドネシア研究者を頼って相談を重ね,調査地をインドネシアに移すことを決めた。科研費獲得に向けてモロッコの教育事情を必死に読んでいたのに,今度はインドネシアということで,またもや必死に調査全体の設計を考え直した。その後,なかなか研究成果がまとめられず,数年間は科研に応募しても通らなかったのは当然の展開だったが,とにかくインドネシアの教育そのものを知るのに時間とエネルギーがかかって,自分が何かを書くなんていう段階に進めなかったのだ。今も,インドネシアの教育がわかっているという感じは,正直に言うと,しない。けれど,そんなこと言っていても科研は公的資金だし,責任逃れみたいな発言なので,ということで,やっと論文にまとめたというわけであった。

 このような経緯でインドネシアの教育と宗教を学んだ際に,さいしょの基本として理解しなければならないように見えたのが, パンチャシラ(Pancasila)という,憲法にも刻まれる,その国家の基本理念の一つとされる,"唯一神への信仰"の存在であった。同国では,イスラム教のほか,プロテスタントカトリックヒンドゥー教,仏教,儒教という六つの公認宗教があり,子どもたちは学校で自らの宗教を届け出てその宗教の宗教教育を学校で受ける(その宗教について学ぶ科目を履修する)(写真は当時の宗教・イスラムの教科書)。ヒンドゥー教,仏教,儒教一神教じゃないと思われ,儒教に至っては宗教でもないと私は思うのだが,もちろん議論はインドネシア国内にもあるらしいのだが,とにかく,そういう制度になっていると。

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 といった経験から,『アメリカの恩寵』の中で,アメリカ合衆国で宗教がコミュニティの中で人びとを多様に結びつけている(しかもそれには流動性がある)さまが描かれているのを読んでも,私には,アメリカでも世界的にも,極端な世俗化は当面,実現しないと思われるのである。人びとが何を求めて宗教に向かうかは私にはわかっていないが(それも計量的に調査したものがあるのかな?),インドネシアで出会ったムスリムたちと私のカトリックのコミュニティでの経験を主たるベースとして思うのは,一度,宗教的な体験をすると,この現世での宗教の切り分け(宗派)はともかく,宗教という存在が生きるよすがとしてどうしても必要に感じられてしまう,ということだ。だから,いかに流動的であっても(教会ショッピングのようなことが広まっても),極端な世俗化には向かわないと思うのである。魚津先生がおっしゃっている,ウィリアム・ジェイムズ(William James)のプラグマティズムの思想の一端(魚津郁夫『 プラグマティズムの思想』筑摩書房,2006(ちくま学芸文庫), 引用は13p.)は私はアメリカ社会に今も受け継がれている。よすがか慰めか。

 ウィリアムジェームズは、たとえどのような観念でも、それを信じることがその人に宗教的な慰めを与えるならば、「その限りにおいて」これを真理としてみとめなければならないという真理観をとなえた。

 

 一方で,今,日本の学校で,教科外活動だった道徳の時間が「特別の教科 道徳」へと転換されていく過渡期にあるが,これまでのところ,私立小・中学校では学校教育法施行規則の定めに従って「宗教をもって道徳に代えることができる」ということになっている。しかも,そのうち,「宗教をもって道徳に代えることができる」が削除されるかもしれないのではということで,道徳と宗教はどう違うか,といった議論が,教会ではぼーっとしている私にも聞こえてくるようになっている。インドネシアが国家を統一しようとした過程での作りあげてきたものを,日本も似たような形で,宗教ではなく「道徳」という形で,今(また),作りあげようとしているということなのか?

 インドネシアや日本は国家が宗教やはたまた道徳について学ぶことを制度化しているということで,アメリカはその点,大きく違うわけですね(でも,日本の義務教育での道徳教育を高く評価している 米国在住ライターが書いたこんな記事もある。)。自立してるんだよ,アメリカ人は。自助,自立--これが厳しく求められるのがアメリカ社会の苦しさでもあるわけで,家族・親族だって,成人した人の自助,自立は当たり前のように要求してくる社会。そこで,宗教や,図書館が,コミュニティのその厳しさを補完していると私は思う。今週,アメリカでは,全米図書館週間ということになっているのだが,そのテーマは,Libraries = Strong Communities強いコミュニティであって,国家ではないことに注意(笑)!