シティズンシップと図書館の深〜いはずの関係。

 教育に関わるお仕事をなさっている方で,"シティズンシップ"を育むということを意識しておられる方は,どのくらいいらっしゃるものでしょうか。図書館関係者の皆さま,"ライブラリアンシップ"ではありません,"シティズンシップ"でございます!
 今回の連続講座「情報を評価し,判断する力をいかに育むか」の講演会部分の最終回は,"シティズンシップ"がテーマです。シティズンシップ教育への関心は高まってきているとは思っていましたし,注目してきたつもりでしたが,シティズンシップ教育をよく勉強しなければ,これがたぶん今とても大事なことなんだ,ここに教育の可能性がかかっているんだ,と腑に落ちるような感じで思うようになったのは,私は,恥ずかしいことに3.11後です。3.11後の原発事故,そしてメディアと情報のあり方を見ていく中で,これは政府とマスコミの問題として見るというだけではだめで,私たちの社会や政治に対する過去の無関心または無力感からきたであろう諦めの果てに起きた問題,民主主義の崩壊(未確立と言うべき?)の果ての問題として,本当に真摯に受けとめる必要があると思いました。先日,書いたように,私も,原発の問題は私には解決できない,と思っていたわけで,これは,当然,私自身の反省です。だから一方的に,このような反省にもとづいて子どもたちには新しい教育が必要だというようなことを言うつもりは無く,これは,私が自身が学び,考えなければいけない,と思っています。ただ,このようなことを考えている人は,私の身近な人たちの会話でも,少なくないのかなと感じています。
 私は,アメリカでの(学校)図書館と(学校)図書館専門職の発展と,日本の図書館の状況を対比させて考えるということをずっとしてきています。博士論文の最後には,アメリカのプラグマティズムにその発展の理由を求めた議論をしました。ただ,今はこのあたり,ちょっとまた考え直しているところがあって,特に学校図書館ではなくて,図書館の発展ということで言うと,アングロサクソンの社会での発展,として見た方がよいのか,などなどと。。そんなふうに,文化と図書館発展の関係性ということを考え続けていたなかで,昨年でしたか,鶴見和子さんの「対話まんだら」にすごく考えさせられ,共感できる箇所が多くて興奮して読んでいて,衝撃の一言に出会いました。歌人石牟礼道子さんとの対話の巻の,日本社会について述べている箇所です。前後が無いとわかりづらいとは思いますが,私にとって衝撃であった箇所を引用してみます。

 石牟礼 私もそれを思うのですけれど,人間は自分と人さまとの差ですね,差別じゃなくて,差異がございますよね。微妙に人さまとの間にございますでしょう。完璧にそれはなくなるのかなと,自分の問題としてね。いまおっしゃったようなことは終始ございますよね。でも私は一人でおりたがる。人さまがいらっしゃると,ああ,困ったなと思いますでしょう。それでね,もう仕方ないと思いますよ。作品を生むのにとじこもっていても,「顔見にきたばい」とかいって,昔の友人とか親類の人が,ごめんくださいもヘチマもない。もうそういったときは隠れるわけにはいかない。
 鶴見 こう見てんのよ,他人の部屋をのぞき込んだり,入ろうとしたり,とってもこわかった。それでここでは市民社会というのは通用しないのよっていったら,俊輔(鶴見俊輔)が怒ったのよ。「お前は日本に市民社会があると思ってるのか」っていって。つまり,「だめだぞ」と言われたの。それで反省したんだけどね。生活綴方で修行,生活記録運動で修行し,水俣へ行って修行したのに,まだだめだとほんとに思った。ここへ来たり,病院に行ったりしてもまだ直らない。
 石牟礼 それでお相手して,心の中でお引き取りを願っているんですけど,やっぱりそういう自分を嫌だなと思います。
 鶴見 そう,あなたでも。
 石牟礼 はい。むずかしゅうございます。もう永遠の課題ですね。これはもう差別につながっていくとは思うんですけど。私,もの書きしていなくってもそういう閉じこもり型ですけど,業なもんだなと思います。そういう世界から脱却すべきなのに。(石牟礼道子鶴見和子『言葉果つるところ』藤原書店,2002(<鶴見和子・対話まんだら> 石牟礼道子の巻),p.76-77.)

 このどこが衝撃的だったか。--そうです,鶴見俊輔氏が仰ったという,「お前は日本に市民社会があると思ってるのか」という一言です。そうか,と。私は日本社会を本当にわかってなかったと思いました。そこをわからないで,アメリカの図書館と日本の図書館を見比べてたんだと。それから,市民社会(civil society)とは何かということを,理解したいと思ってきました。そして,今,本当に理解したいと心から思っています。今(まで)の社会からの転換のキーワードなのではないかと思っています。日本で,"市民社会"を,いい意味で実現することが必要なのではないか,ということです。
 そんなことを考えて,第4回の講演会,今回の連続講座の最後の講師の先生をどなたにお願いしようかと考えました。政治と哲学と教育をつなげて,私たちのために語ってくださるだろう方,そういう方を思い出そうとしました。そうして..小玉重夫先生で,足立先生と私の間で意見がすんなり一致しました。
 小玉先生のご著書に私がはじめて出会ったのは,翻訳書『学びへの学習:新しい教育哲学の試み』(ジェリー・H・ギル著,田中昌弥,児玉重夫,小林大祐訳,青木書店,2003)でした。その「序文」の次のような文は,端的にこの本の理想を示していると思いますが,身体と言語と教育について,私には学びの多い一冊でした。

  • 「わたしがここで念頭においているのは,毎度のごとく必要になるにもかかわらず,ほとんどまったく欠落しているもの,すなわち教育哲学[筆者注:「哲学」に傍点あり]である。アメリカの教育の質の方向性に関してはたくさんのさまざまな記事や書物が存在するが,それらのなかに,知(knowing)はいかに成立するのか,知り手(knower)とはどのような存在なのか,何を知ることができるのか(known)ということについて深く論じたものは見当たらない。いうまでもなく,こうした問題のいくつかに決着がつくどころか,焦点も当てられないようでは,現在おこなわれている議論のほとんどは無駄口だということになる。こうした重大な問題を提起することが以下の章の目的である。」(p.2)
  • 「実在,真理そして善は,学習者たち自身が,共同で課題をこなし,ともに生きることと関連させながら向かいあい,解釈し,構築していかなければならない。」(p.6)
  • 「わたしの仕事は,人間の経験,意味,そして知識(脱構築主義が述べているものも含む)が織りなすすべての渦は,人々が共有している身体性の特別な形態であることを明らかにすることである。」(p.9)

 次に出会った小玉先生のご本は,『シティズンシップの教育思想』(白澤社,2003)です。これは,おそらく,今回の講演会においでいただく方には予習のための必読書かと思います。第1講から第11講までは,現代の学校を,哲学,社会思想の大きな流れとの関連から,わかりやすく解きほぐして説明してくださっていると思います。そして,第12講が圧巻です。小玉先生が,今,そして未来に誠実に向き合っておられるように感じられるところが,小玉先生のご論考をまた読みたいなと私が思うゆえんです。このご本の「第12講 過去と未来の間に立つ」は,これからの教育のあり方についての,教育哲学の検討にもとづく,具体的な指針になっています。特に,「批評空間としての学校へ」というご提言には,私は大いに大いに,共感いたしました。「批評空間としての学校は,成熟した判断力を有する素人としての市民,シティズンを社会におくりだす役割を担っているのである。」(p.160-161),「啓蒙的理性に立場に立った真理のエイジェントとして,社会をリードし進歩させていくという学校モデルは,すでに耐用年数を越しているが,批評空間として社会のなかに公共空間をつくりだしていくという学校の役割は,今後ますます増大していくことが期待される。それにこそ,パブリックな教育の可能性の革新がある。」(p.161)と,小玉先生は簡潔に,このご本のまとめにあたるここのところで書いておられます。共感いたしました。また,そのような学校において,学校図書館が,多様な観点から書かれた資料群をもって,重要な役割を果たすということも,私は確信しています。
 民主主義社会と(学校)図書館の関係の深さは,図書館関係の文献でくりかえし言われてきました。「図書館の自由に関する宣言」にまとめられたような「図書館の自由」の理念を議論するときにも,自由民主主義の社会の理想が基本になっていると思います。社会そして政治のあり方と教育との関係を,我がこととして多くの人たちが考えつつあるのかもしれない今,そうした図書館の中でスローガンのように繰り返されてきたものが,もう一度,精査され洗練されてよいと思います。私は今,学校図書館の教育的使命,意義を語る際に,"シティズンシップ教育"を鍵概念とする必要があるだろうと考えています。そして,またそれが学校図書館という存在についての説得力を増すことにつながるかもしれない,と私は期待しています。そもそも,占領期の教育改革で,学校図書館の必要性は,民主主義社会における公民の育成(civic education)に関連の強いと考えられた自由研究と社会科の成立にあたって認識されていた一面があります(拙著『占領下に本の学校図書館改革:アメリカの学校図書館の受容』慶応義塾大学出版会,2009.)。ここをもう一度,よく見なおし考えなおしてみる,ということかもしれません(それに留まらないと思いますが)。
 図書館の世界の中での閉じたコミュニケーションではなく,図書館に関する言説を,より開かれたものにする必要があると感じています。今度の連続講座が,(図書館の世界から見るとその外で)深い思索を重ねてこられた講師の先生方の問いかけを手がかりに,広く教育に関心をもっておられる方たちのご参加を得て,皆さんを,私を,新しい思索と行動のステージに導いてくれるようなものであれば,と思っています。
 ちなみに,小玉重夫先生が著者のお一人である『教育学をつかむ』(木村元,小玉重夫,船橋一男著,有斐閣,2009)は,近年,私が読んだ教育学の入門書的なもののなかで,もっとも刺激を受けた数冊のうちの1冊です。ああ,教育学の動向を,私はわかっていないで,教育学の研究者の末席を汚していたのだなと反省するところが複数,ありました。小玉先生は多くのご業績がおありで,すべてをご紹介することはできませんので,今日はこのへんで。
 そういえば,最後に突然思い出しました。石牟礼道子さんは水俣病患者の苦しみを書いておられますが,連続講座第1回の講師の中尾ハジメ先生は,水俣の写真集の翻訳者でいらっしゃいます。