ジャパニーズポップスにみる時代の移行感

 アメリカ合衆国ニューヨーク州シラキュースに1年,在外研究の機会をいただいておりましたが,このたび帰国しました。その経験についてはこのブログではなく別のところで書きたいと思っていますが...どうなることやら。

 さて,このブログは直接,学校図書館や図書館に関係なく,しかしそれらの私の理解の変化の背景を記しておく放言の場として残しているので,今日もその姿勢で,最近のジャパニーズポップをみていて思ったことについて書きます。

 昨年1月に私にとって,特に近年,とても大切な人であった,叔父が突然亡くなりました。駆けつけて亡くなった叔父に対面したときは,「あらあ,叔父さん(死んじゃったの?)」くらいしか出てこなくて,自覚としてはそれほど衝撃ではなかったのだけれど,しばらくしたら次々と彼との思い出が浮かぶようになり,胸に迫ってきて,日に日につらさが増す。それはまあ仕方ないからいいのだけれど,亡くなった直後にある知人に叔父のことをさらっと話したら,「風くんが...」と藤井風氏のことをどういうアプローチだったか知らないけれど,紹介してくれて,その人と別れた後,帰宅するときにその名前を思い出してYouTubeを検索して,どういう経緯だったか覚えていないけれど,「帰ろう」(2020年5月リリース;以下)に出会った。もうその時から,この曲は私にとって,叔父リスペクトで聞く曲になっている。この曲自体も藤井風氏も私には衝撃だったのだけれど,そのMV(以下)が衝撃も衝撃で,こんなMVがあるのかと。その映像ディレクターの児玉裕一さんという方がリオのオリンピックの閉会式で披露された東京大会への引継ぎ映像ディレクションした方だと知って,世の中にはこんなに才能のある方がいるのねえととにかく感動した。惹きつけられ興奮させられるだけでなく,細部まで作りこまれたその意図を解きたい気もちにも駆られる。

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 風氏を観るようになって,YouTubeが他のジャパニーズポップスを提案してくるようになった。ある時,気まぐれにYouTubeの音楽チャートをみたら,SEKAI NO OWARIの「Habit」(2022年6月リリース)が一位になっていた。これはダンスが有名になって物まねする人たちも現れたりしていたと思うが,私が衝撃を受けたのは,冒頭の歌詞だった。「君たちったら何でもかんでも分類 区別 ジャンル分けしたがる ヒトはなぜか分類したがる習性があるとかないとか…」 図書館学批判とも,社会学批判とも,学者批判とも,近代批判とも聞けるような…(笑)

 そしてつい昨日,YouTubeで出会ったのがKing Gnuの「雨燦々」のMV(以下)。コメント欄に「聴けば聴くほど一冊の小説だなあってなる」とあって,気になった。昨日は日帰りで名古屋に学会に行って体力が残っておらず,先ほど改めて観て,これは何なんだと吹っ飛んでしまった。最初の数分,ヘッドフォンをして自転車を漕ぐ彼女(主人公)の横顔に,この年代独特の,内側でいろいろ一人で考えている様子,そして1分34秒あたりからプールのシーン。観ているだけで,この年代を感じて,音楽といっしょに胸を締めつけてくる。この表現がいいかわからないが,死にたくなる。

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 「Teenager Forever」のMV(以下)の作りも,なんというか...すごいとしか...。その歌詞と音楽とをこのように映像に適切に表現できるものかと。それ以外に論じようが私にはない。ここについているコメントはみな,明るくて,イイ!

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 King GnuYouTube上のMVについている英語のコメントには読ませるものがある。風氏もKing Gnuも,人生を歌っているので,文化のギャップ無く受け入れられるのか,外国の人たちにも聞かれているよう。以前,「ビートルズを聴くと,英語ができたらなあと思う」とロシアの国防相が言ったという話に言及したことがある(こちら)。今って,このようなことがほんとうにあらゆる分野で国や地域をまたいでものすごい頻度で起きているなあと,これらの日本人のアーティストのMVのコメント欄を見ていて,感じた。令和のMVはそして,主流文化に媚びないというか,日本の若者の今を現実を堂々と描写するし,ジェンダーニュートラルのようなところがある。

 そして,音楽の基礎学力というかのレベルが高いよね...。ジャニーズとかAKBとか,そういう,昭和のプロデューサーが生み出していたものが受け入れられる時代が終わろうとしているのじゃないかなと思います。それとも,それはそれでジャパニーズポップスとして,残るのか???