OHIO! II

 今日の写真は、オハイオ州立大学(Ohio State University)トンプソン図書館(Thompson Library)です。こちら、複数の受賞歴があって有名だと思います。なんと約100億円をかけてリノベーションを行ったものだそうで、いやあ、すごかったです。コレクションといい、建物といい。来訪の価値ありです。これからの図書館というものを、どう考えているか、これから100年以上価値のある図書館であり続けることができるか、がよく考えられていると思います。
 一言でいえば、この図書館は、コミュニケーションのための快適な“場所”(“Library as a Place”)なのだけれど、一部の空間(例えば書架が並んでいるエリアや静かなリーディングルーム)に行くと、そこは、おそらく意図的に、古典的な図書館の雰囲気が作られているのが印象的でした。歴史ある“図書”というメディアをこの図書館を作った人たち(設計者だけでなく、ライブラリアンたち、オハイオ州立大学)が尊重していることは明白で、図書館は深い黙考を促す場所でもあるというメッセージを来訪者の身体に伝えてくる。ガラスの先に見える図書コレクションの圧巻!しかも、ガラスを多用した近代建築が、図書というメディアをまるで電子メディアかのように見せている感じもします。写真を見て、みなさんは、いかがですか?ガラス越しに見ると、きれいに並べられた図書は幾何学的で、実は0と1だけの世界なのかなと思わせられるような単純さを私は感じます。一方で、パソコンの置かれたエリアや、メディアはすぐ近くには無く、なんらかのコミュニケーション・メディアを利用者自身が持ってきたり、個人的な活動ではなくて、他の人と出会うことを想定しているだろう、快適な椅子の置かれたエリアは、とてもゆったりとしている。この組み合わせ方がすばらしい。
 これから数百年の単位で図書館について考えようというとき、この組み合わせになるのだろうなあと思いました。すごく説得的。過去と未来を同じ空間に収める。つまり、書物なりメディアなりが中心ではなくて、利用者が中心になる、ということ。利用者がどうとでも使える、ということが重要だということですね。フレキシブルかつ利用者が快適にコミュニケーションを進められる空間を作らないとなりません。まあしかし、土地が十分にある、ということも大きいですね。昨日紹介したコロンバス・メトロポリタン図書館本館と言い、広い土地あってこそ、だなあとは思います。日本の狭い空間で、アメリカの図書館のような快適な空間を作るのは簡単ではないのではと思います。やっぱり、パーソナル・スペースつまり人と人との間隔がね、ある程度は無いと…人間の個人としての自立を前提としたコミュニケーションと社会のあり方を模索すると言っても、生物として、何か無理があるのじゃないかなと思いますね。
 今回、図書館2館のほかに、オハイオ州立大学内の漫画図書館・博物館(The Billy Ireland Cartoon Library & Museum)OCLCを訪問することができました。OCLCではデータセンターを見学させてもらうことができ、WorldCatのサーバーを見ることができて、ちょっと感激しました。ただ、インターネット時代、無料の情報があふれる時代にあって、OCLCはこれから何をしていくつもりかと同社の重役の方に質問したところ、利用者が使いやすいシステムを作る、というシンプルな答えのみで、それ以上はその話題について話そうとしてくれなかったことに、ちょっとがっかりしました。それだけ危機意識があるのかなあ、とも思ったのですけれど、さてどうなのでしょう。
 最後に、IFLAの2016年年次大会で参加したセッションについてです。ひとつは、目録の電子化に関わるこちらのセッションに出ました。RDAへの展開なんかは、学校図書館の文献だと英語でもまだほとんど見かけないのではないでしょうか。でもこのセッションに3時間強出て、やっぱりもっと勉強しないとだめだなあと思いました。NDCによる書架分類のことしか考えていないのは、ほんとうにもうあまりに古典的すぎて、子どもたちが、というか大人たち自身もですが、要するに一般の図書館利用者が今、移動しつつある電子資料の世界(時代)での図書館専門職への接続、展開がまったくできていないことを意味するのかもしれません。もっとも、テクノロジーの発展は継続しているので、VHSが無くなるように、今、AACRなりNDCなりからRDAへと言っていても、これから表れる新しいテクノロジーによって、RDAのような図書館的発想での情報の目録化のようなことは必要性が無くなるということがありえないとも言えないと私個人は思っています。でも、そのようなことが起きるときには、それまでにRDAを学ぶところにまで至っていなかったようなライブラリアンは、完全に変わってしまう図書館の世界、もしくは情報の世界で、新しい立ち位置をすぐに見つけることができるかどうかも疑問ですね。
 最近つくづく、自分が退職する20年後まで、このプロフェッションがあるのかなと思います。日本のように、図書館専門職をリニューアルして、進化させていくことに興味をもっている人たちが多くないところで、旧態依然として古典的な仕事をしていて、一方で、図書館の外ではどんどん情報の世界が変わっていっていて。実際、図書館専門職は専門職と言えない状況に追い込まれていて、すでに待遇面では官製ワーキングプアと呼ばれるような扱いを受けるまでになっている。RDAなどの話を聞くと、日本の司書課程は歴史を教えているのではないか、とすら思ってしまいます。未来志向のつもりでいても、実際には、図書館の外の世界からあまりにも乖離しているのではないかと。この問題は、今回、この目録のセッションに出る前から考えてはいたことでしたが、そもそもこの時代における情報の、知の目録作成ってなんだろうと、本気で考えさせられますね。一方で、身体性ということを考えると、図書という形態や、書架分類の行われた図書館という知の小宇宙を体感できる物理的な存在の価値というのはあるのだろうと思いますが、図書館専門職の必要性ということと、図書館という物理的な場の必要性は別々に考えられます。なぜ、図書館専門職が、コンビニのバイトよりもラクだなどという意見がインターネットの匿名の投稿ではいくらでも出てきてしまうというような現状になっているのか、実際、ワーキングプアになるくらいのお給料しかもらえないことが広まっているのか、日本の図書館関係者はもっと真摯に、深刻に、深く考える必要がありますね。そうじゃないと、表向きは、図書館に専門職がいることは大切です、司書教諭のほかに学校司書も配置が必要です、なんて言ってもらえても、裏では、“この人たちは時代がわかっているのか?”“いつ図書館が完全に不要になる時が来るとも限らない状況なのに、この人たちは今もまるで昭和を生きているかのようだ。”“自分たちを時代とともにリニューアルもできず、専門職としてのヴァージョンアップもしなければ、自分たちが専門性があると主張する情報の分野で社会においてリーダーシップも発揮しないのに、専門職を主張するこの集団は何だ?労働運動か?”と内心で多くの人に思われてしまうのではないでしょうか。やっぱりもっと、日本で図書館職がここまで待遇が悪くなったことについて、本気で考えてみる必要がありますね。
 目録のセッションのほかは、3つの、教育関係のセッションに出ました。今年、私は、勤務先から研究助成金をもらっていまして、百万あるとそれなりのことができそうです(久しぶりにまともな額の研究費がある、うれし〜)。この助成金で検討しているのは、日本の学校図書館専門職養成を世界の図書館情報学教育で行われているe-learningのプログラムと接続することで、レベルアップできないか、です。日本の中だけで考えていたら、やっていたら、だめなのですよ、と私は思うのです。図書館情報学教育に関わる教員の“質”の問題がありますし、日本という社会が変化に対して常に慎重で、情報の世界に関して言うと、完全に図書館職が後れを取っている状況にあって、外を見ないでどうする?と。図書館関係者が内へ内へ逃げ込んで行っているような状況から、発想を、姿勢を、転換しないと。
 今回のIFLAで教育関係のセッションに出てみて、自らについてもそういう内向きの思考があったなと改めて反省しました。そして、現実の動向で言うと、北米の図書館情報学教育のiSchool化という方向性は間違えていないのではないか、という印象を今さらですが、もちました(iSchoolについては改めて書きたいと思います)。シラキュース大学のiSchoolの人たちと、コロンバスでも一緒に食事に行くことができ、いろいろ話すことができたのですが、iSchoolに入学したいという学生が世界中にたくさんいる一方で、図書館職員養成のコースの縮小が続いている印象です。日本でもこれって起きているのだと思うのですよね、司書課程の数は確実に減ってきているし、ポストも非正規化している。大学が潰れる時代だということもあるけれど、どこを減らすかと言ったら司書課程になってきているわけですよね。うちの大学は大丈夫、などと司書課程の教員が思っているような大学は、大学そのものがやばい状況にある(なる)かもしれないよ、、、
 さて、長々、日本の状況について否定的なことばかり書いたようですが、私個人としては問題の認識ができた、それがクリアになったという感じです。未来予想を完璧にできる人なんていませんし、私も未来のことは常にわからない気もちでいますけれど、自分で切り開いていくっていうのが重要かなと思っています。なんとなくまずいと思いながら考えることから逃げる、内向き(後ろ向き)とかっていうことをしていて、ハッと気づいたら、なんでこんなことに、、、みたいなのは、プロフェッションとしてもまずいよね。やったけど、だめだった、の方がまだいい(と私は思う)。私個人としては、前向きになることができた旅だったと総括しています。