図書館とは関係ない話 ~好きであること~

 思い出話。高校生が読んだら,おお,”先生”と呼ばれる職業についた人にも,職業探しで苦労した経験をしたことがあるのかくらいは思うかもねと思って書いてみる。

 図書館情報学研究,また司書課程履修生には音楽好きが多いと思う。日本図書館情報学会には交響楽団の年間会員になっている先生が何人もいらして,今の私のポストの前任の先生はそこから結婚相手に出会ったという話だった。以前,私と一緒にお仕事してくださっていた,今もご活躍の某N先生は,調査でバルセロナにご一緒させていただいた際,オペラに私を連れて行ってくださった。その時,私はオペラを観たのは人生で2度めか3度めだったが,あの人はうまい・イマイチだ等々,放言して,まったく失礼なことをした。あと,本学にも出講してくださっている某U先生はバレエの批評でも著名な方である。私は,そういうハイカルチャーに,自分でチケットを買って行くということは滅多になく,行くとするとパートナーに連れられて行って,そして,N先生にしてしまったのと同様の,失礼な素人のめちゃくちゃな感想を聞かせるという...

 この春,ウェブページを久しぶりに作るかなと思い至った。それでどういうのにする?と考えていて,すっかり自分が美的センスに自信を無くしていることに気がついた。実は,私は,高校のとき,美術評論家になりたかったのだ。高校に入るなり,それまで一番の得意科目だと思っていた数学がわからなくなり,一瞬にして落ちこぼれてしまっていたこともあって,勉強ではないところで,自分が好きだったものから道を見つけられないかということを考えていたような気がする。しかし,2年生の夏ぐらいだったか,美大予備校に行かずに美大に行けるわけではないのかなと思って行ってみたら,絵を描く力としても,知的にも(特に記憶力),まったく美術評論家なんてものにはなれないということがわかってしまった(と思った)。その後,私はほとんど何も考えないままに国文科に進学し,二つ下の妹が美大に入って,劣等感が生まれたのか競争心だったのか,絵を描くこともまったくしなくなってしまった。そして,評論家になりたかったという話を,それから十数年後に出会った,恩師ともいうべき某高校英語教師のA先生に何かの拍子にぽろっと話したら,評論家なんて何もしないで口先だけの人っていうことだ,そんなものはなりたいなんて思うべきものじゃないというようなことを即座に返されて,その時どんなリアクションをとったか記憶にまったくないが,ちょっとした衝撃を受けた。いったい私は何がしたかったのか?何者になりたかったのか?---つくづく,自分には思想のプリンシプルというものがないのだなというようなことを考えさせてくれた小事件であった。

 そしてこの春,ウェブデザインの本を読み,ウェブサイト構築をはじめるかなとうろうろしているうちに,まあこういうのも嫌いじゃないけれど,もっとアナログな,つまり筆を持って絵を描くということをまたしたいなあとすごく思うようになった。でもなんとなく,まだ筆を手にとる勇気が出ないでいる。そんなこんなでふらふらしているうちに,古書店で,『千住博の美術の授業:絵を描く悦び』(光文社,2004)という本に出会い,読んでみた。で,これが…いやはや,私にはビビビとくる一冊でした。「描けなくてもアトリエにいる」という見出しの下で,冒頭に「芸術というのは自分自身との対話でもあります。」(p.145)とあるのだけれど,いや,ほんとうに,この本は,千住氏の人生がつまっている。ああこうやって向き合うようなことができなかったのだから,私に美術に関わる道が開けるわけもなかったのだなと思ってしまった。「描けない一年間アトリエに通い続けた」という見出しが,「描けなくてもアトリエにいる」に続いているのですが,ほんと,これがだいじで,今,私は図書館を学問するということで禄を食むようなことになっているが,これは,苦しいときがあっても,短い空白期間はあっても,なぜか身体がそれを継続をしていくように動いてきた。誰かと自分を比較しようと思ったこともない(何かの瞬間的にそういう感覚が生まれることはあっても,まったく続かない)。美術評論家にはなれんなと思ったときのような,諦めます,みたいな感覚も今まで認識したことがない。

 結局,好きだってことが一番だいじな感情なのだなって改めて思うのです。

 そして,評論家に終わりたくないというか,第三者的立場に自分を置いて何か,当事者でどっぷりそれに浸かっている人には見えないかもしれないことを指摘するということに価値がないとは思わない。けれど,評論家もその評論する対象の一部なのだという感覚をもってそれを取り扱い,ふるまうっていうことが,だいじなのじゃないかなと,今は思っている。

 最後に,最初の音楽の話に戻してみると,昨年の4月に,レディー・ガガ嬢が発起人になって,「One World: Together at Home」というチャリティのバーチャル・コンサートが行われたのを記憶しておられる方もいると思う。私はこのコンサートの中で,Picture Thisというバンドに出会って,まだ理由は言語化しきれないが,ちょっとしったショックを受けてしまった。こういうオリジナリティあふれる,胸に突き刺さるような音楽を作ることができる言語がやっぱりとても羨ましい!!というようなことを思ったということだったと思う。ポール・マッカートニーのコンサートをYoutubeで(違法かもしれんが)観ていたら,ロシアでコンサートをしたら,国防相が楽屋にやってきて,「ビートルズを聴くと,英語ができたらなあと思う」とかなんとか言われたとポールがほんとうに嬉しそうに言っていた。まさか,ロシアに私と同じことを思っている人がいたとはと呆れる?と同時に,「好き」という感情がどれだけポジティブなエネルギーをもつものかを確認した。

 ちなみに,このPicture ThisというバンドのYoutubeを観ていたら,Yesterdayというビートルズをネタにした映画を思い出した。この映画,観た直後は,ビートルズは素晴らしいよねということを確認できただけの駄作だと断じた。ところがその後しばらくして,ある時,けっこうこの映画が自分に教えてくれたことがある気がしてきた。この映画,英国で作られたようで,アメリカの音楽業界をめちゃくちゃバカにしているとみえるシーンがある。英国にいたときは,音楽が好きで好きでという主人公が売れないけれどいろんなところで歌い,応援してくれる人,手伝ってくれる人も数人しかいない状態でも,しょぼいスタジオを借りて録音する。しかしいったんアメリカの音楽産業に取り込まれると,見せ方,売り方を徹底的に計算されて,プレゼンテーションの対象にされていく。でも,最後は「好き」に戻る。駄作だけど,いい映画です。Picutre Thisの人たちが,自分たちがいる場所を大切にして,大好きな音楽を自分たち流で続けている感じはとても素敵だ。

 

[2021.06.07昼] 音楽史アイルランドについての記述の不適切さを減らそうと一部修正しました。