情報の評価・判断においてできあいのものに倚りかからずに。

 今,足立正治先生の8月14日付のブログを読んで,「倚りかからずに」は,今回の連続講座「情報を評価し,判断する力をいかに育むか」の企画の趣旨を表すもっともよいことばのように思われました。この「倚りかからずに」には,足立先生に以前いただいた,野口晴哉氏の思想を紹介した一冊,永沢哲『野生の哲学:野口晴哉の生命宇宙』青土社,2001.の一節を思い出しました。

 人間であれ,動物であれ,揺らぎの中にあって,複雑な秩序を作り上げている生命には,身体や心のはたらかせ方の偏りによって生じてくる歪みを修正しながら,変化し,成長していくプライマルな知恵が,もともと備わっている。自然に内蔵されている精妙な知恵を十分にはたらかせることなく,外から押しつけられた規範—「異常」な現象がないことを「健康」と考え,その解消のみを求める身体観は,その典型だ—にしたがい,あるいはそれにもとづいた実践の体系に依存していく。そういうやり方では,人間が本当にいきいきと自律しながら生きていくことは難しい。本当に大事なのは,一人一人が自身の心身のあり方に生じる変化に対する感受性を高め,微分化された霊妙な知恵をはたらかせながら,自己の中に内蔵されているポテンシャルを完全に開花させて,生き,そして死ぬことだ。そういう人間の生き方につながらない医療や人間観は,根本的な誤解にもとづいている。野口晴哉はそう考えていた。(『野生の哲学野口晴哉の生命宇宙』p.66)

 さて,企画で,まずは講師の方をお呼びして数度,数ヶ月にわたって講義していただいて,それから最後に受講生みなで集まってディスカッションをしよう,ということはわりとすぐに決まりました。私が一人で文献で学んで,レポートを書いて,というのではまったくつまらなくて,みなとこの学びを共有したいと考えたのです。年度内に目処をつけたいということで,区切りがよい回数かなということも考えて,9月から全5回で実施しようと決めました。となると4人の講師の方をお迎えできるわけですが,その構成は,初回は導入にふさわしく,広く問題意識・問題関心を耕してくださる先生を,第2回はメディア,情報,コミュニケーションの政治性の問題について批判的に検討しなおすことを助けてくださる先生を,そして第3回は読書,読むこと,読み方の教育のあり方を問い直すことを助けてくださる先生を,第4回はシティズンシップや民主主義とリテラシーの教育の関係を考えることを助けてくださる先生を,お呼びしたらよいのではないか,ということはすぐに,自然な感じで足立先生との間で合意されました。
 9月24日(土曜日)の初回を 中尾ハジメ先生に「「知性の自由」を求める教育」というタイトルでお願いするというのは,足立先生のアイディアでした。中尾先生には私は,今年2月に京都で開催された中尾先生のお兄さまの片桐ユズル先生の傘寿の会で同席させていただいただけの関係?でしたが,そのときに中尾先生が片桐先生へ,言語に関わる数々の根本的と思われる問いかけをされていたことがとても印象的でした。いつか,お話をうかがってみたいとそのときに強く思ったのでした。その思いがありましたので,この機会に,中尾先生のご本やご論考を,集めて,読んでみました。考えさせられ,また今回の講座につながってきそうだと思われたものとして,次の3点をあげたいと思います(以下,敬称略で,発表年順)。
 中尾ハジメ『スリーマイル島』野草社,1981.
 中尾ハジメ「風景,そして専門家とただの人」『思想の科学』No.107,1988.9,p.4-15.
 A.ドブソン編著,松尾眞,金克美,中尾ハジメ訳『原典で読み解く環境思想入門:グリーン・リーダー』ミネルヴァ書房,1999.
 「風景,そして専門家とただの人」は,中尾先生へのインタビュー記録ですが,スリーマイル島の現地でのご経験を経て認識なさったのであろう,さまざまな問題を指摘なさっていて,考えさせられました。今,東日本大震災後の福島第一原発の事故を経て,私を含めておそらくそう少なくない人たちがはじめて真剣に考えるようになった問題を,中尾先生はもう約30年,真摯に考えてこられているのだと思いました。私は中でも,次の問いかけが,心に残りました。

 科学をつまみぐいしたり, 疑似科学の言葉で書かれているなんていうと聞こえは悪いけど,実際のところ,ぼくらはそういうものを借りないで,原発みたいなさしせまった問題をしゃべることはほとんどムリなんじゃないかな。それじゃあ,専門家まかせにしときなさいというのに等しいでしょう。
 これまでは,ある種の合理性だけがはばをきかせていて,噂とか,天気の話とか(笑),あるいは玉石混淆の流言蜚語とか,そういうのが実際には意味があっても,科学とか社会科学のなかでのマイナスの価値ばかりつけられてきたでしょ。だけど,その社会科学ではたいしたことができないのも,だいたいわかってきたんじゃない。専門家と素人の問題,素人がいかにして政策決定に参加するかっていうようなことは,この問題を抜きにして考えられないんじゃない。
 原発が事故を起すのは,言ってみれば必然のことというか,わかりやすいはずのことで,それがこんなにはびこっちゃってるんだから,もうほんとに崖っぷちなんだよね。だから聞こえはものすごく悪いけど,ファナティックな反原発運動がでてきたって,ぜんぜん不思議じゃない。ファナティックな非暴力主義っていうのかな。ぼくだってファナティックでしょ,かなり(笑)。そりゃ,冷静になればなるほど状況はほとんど絶望的なほどむずかしいんだ。理性的になることと,シニカルになることの区別をつけることが,こんなにむつかしいっていうのはどうしてなんかねえ。現実には,町の商店街の問題でもそうだけど,経済っていうのが支配する力でしょう。(「風景,そして専門家とただの人」p.12)

 うーーん。
 どう生きたらいいのか,社会と自らの関係を,根本から考え直すことを迫られます。。
 実は,私は,JCOで臨界事故が起きたあと,ある反原発NPOの会員になったことがありました。しかし,とても(その)NPOの会員でいて活動を支援しているというのでは,原発推進の流れが変わるとは思えませんでした。何か,自分では変えられないことなんだ,と感じました。『原典で読み解く環境思想入門:グリーン・リーダー』を読んで,やはり政治・経済から変えなければ,持続可能な(sustainable)社会は実現しないのかな,としみじみ思いました。
 『スリーマイル島』には,情報やメディアに関わる問いかけが散見されました。例えば次のような箇所が印象的でした。

 特派員たちによって送られてくる記事は,それがサスケハナの河畔でかかれようが,ニューヨークのビルの一室でかかれようが,現実のカオスではなく,特派員の有能を証明すべく要領よくまとまっているにちがいない。それを,おおかた,私たちは世界として受けとっているのだ。レポーターはレポーターなりにベストをつくし,読者はますます読者であることに専念する。おかげで,私たちの近代的世界はわかりやすく,疑いをさしはさむ必要は一見ない。(『スリーマイル島』p.18)

 ユズル先生のご専門の一般意味論のテーゼ「地図は現地ではない」を思い出しながら,メディアと専門家の問題を考える,ということになりましょうか。
 このように,特に上記の3つの文献は,中尾先生の思想と学問について9月の講義の予習として学びつつ,私たちの思索を掘り起こすきっかけを与えてもらえるものだと思いましたので,ご紹介いたしました。
 ところで,少し今回ご講演いただく内容とは違うところにあるかもしれない問題ですが,中尾先生が京都精華大学の学長をお勤めだったころに発行されるようになったらしい『ポピュラーカルチャー研究』という雑誌には,図書館関係者が興味をもちそうなテーマがたくさん取り上げられていました。例えば,カフェ(Vol.1,No.1,2007),東京都青少年の健全な育成に関する条例(Vol.5,No.1,2011)などです。図書館研究はポピュラーカルチャー研究とも近かったんだ,と気づかされました。