情報リテラシーを実践する。

 今回の連続講座「情報を評価し,判断する力をいかに育むか」の第2回は,10月29日(土曜日)を予定しています(まだ先のことですので,第2回以降の日程については,変更の可能性があることをあらかじめご了承いただければと思っています)。講師は影浦峡先生で,お話のタイトルは,「メディアとメディアリテラシー論者と図書館:3.11後の放射能「安全」報道をめぐって」です。
 影浦先生は,先月,『3.11後の放射能「安全」報道を読み解く:社会情報リテラシー実践講座』(現代企画室,2011)を出版されました。私はこの本を昨日,読みました。そしてこのブログを書こうとしていたら,友人から郵便が届き,その中に,封筒がおり曲がらないようにするためだと思うのですが,Recruitの無料雑誌R25の25号(2011.8.18-31)が入っていました。見る気もなく見てみると,「R25的ブッグレビュー」が目について,なるほどねえと思いました。今週のテーマ」として「科学とうまくつきあうには?」として,4冊の本が紹介されていました。今回の震災,原発事故を経験して,今,「科学」,「専門家」なるものとのつきあい方を,皆が考えるようになったのだなと思いました。
 ちょっと話が横道にそれてしまいまったようですが,影浦先生の今回のご本でも,「専門家」の発言とその報道,科学的根拠があるとして示される情報,そうした報道をどう理解し行動するか,がテーマなのです。私は6[章]までと,7[章]以下(7,8,あとがき)を,少し違った気もちで読みました。前者については,読み進める中で,説得力ある文章の書き方の模範だなあとしみじみ思いました。漠然と,3.11後の報道,飛び交った言説について,違和感をもち,たぶんこういうことだな,という風に(今回,影浦さんが書かれたように)思っていた人はそれなりの数いたかもしれません。でも,このようにツメにツメてその違和感・理解を見ることができていた人,少なくともこのようにきちんと整理して積み重ねて説明することができていた人は,ほとんどいないのではないかと思います。人に,説得的に説明するというのは,こういうことなのだと思いました。7[章]の最後の部分で,「状況は必ずしも安全ではないと判断し,安全を確保する行動をとることが冷静さを欠く感情的な振舞いであることが仄めかされ」(p.149)というところを読んだとき,私は,これが3.11以後の報道の行き着いたところだった,ここがすごく問題であった,と個人的な解釈ですが,強く思いました。(日本)社会でよく,発言に自制を求めるような雰囲気を感じることがありますが(これは空気を読むというようなことばに表されたりすると思いますが),こういう構造なんだなと7[章]までについてざっと読み返しつつ思いました。
 影浦先生の3.11以後のご活動については,私はフォローできていなかったのですが,先日書いたように東大で開催された緊急討論会「震災,原発,そして倫理」に行き,影浦先生が登壇しておられたので,そこで少しキャッチアップできたかなという感じでした。しかし,今回のご本を「あとがき」まで拝読して,これだけ真摯に報道,情報に関わって,考え,発言し,行動してこられたのか,と頭が下がりました。本来,私を含んで,たくさんいたはずの,情報リテラシーを提唱してきた人たち,メディアを論じてきた人たち,が,(影浦先生に先んじて)語るべきことだった,と思いました。実際,影浦先生は,「あとがき」に次のように書いておられます。長くなりますが,自らを戒める意味でも,引用したいと思います。

 社会情報リテラシーの観点からは,もうひとつ非常に重要な点があります。リテラシーはそもそも実践的なものであり,リテラシーについて何を論じようと,どんな専門知識を持っていようと,授業の場でいかにその重要性を力説しようと,その力は使われるべきときに使われなければ意味がないという点です。そしてリテラシーの力は,反省的かつ意識的に,さあこれからリテラシーの力を活用しよう,どのような報道を相手にしようか,と考えて使うようなものではなく,ただ日常生活の習慣として使うものだ,という点です。普段からリテラシーについて論ずる立場にある人々が,身近な人と話すことも含め,どんなかたちででもよいから,展開しつつあるプロセスに即して,今,何らかの発信を行わなければ,リテラシー論にとっては,自殺行為であると私は感じています。ある言葉についての知識があることと,言葉を知っていることとは違います。ある言葉について大いに蘊蓄を語ることができても(言葉についての知識がある),その言葉を読むことも話すこともできない(言葉を知らない)ことはあり得ます。2011年3月11日以来の状況は,その重要性を語ってきた人々に,単にリテラシーについての知識を有していただけだったのか,それともリテラシーを本当に身につけていたのか,そのいずれなのかを問うていると思います。(『3.11後の放射能「安全」報道を読み解く』p.182-183)

 また,「7 「安全」の視点から考える」(p.151-171)では,「自ら情報を読み解く」ということについて,具体的な指南がありました。「安全」問題を例にとった,とても具体的なリテラシー講義だと思いました。ここでは,7.1.1の「自分が状況を判断するときの指針」が,私には最も説得力をもって迫ってきました。実は,今回の連続講座の企画のはじまりに,足立正治先生とのメール交換をして問題意識を共有する段階で,「ぼく自身のことを話すと,3.11以後,「災害時に求められるメディアと情報のリテラシー」というテーマを立てて情報を収集し,日常的に人と話すときや会合などでも話題にしながら考えをめぐらせてきました。」と書いてきてくださったことがありました。そのとき,足立先生から,広瀬弘忠著『人はなぜ逃げおくれるのか:災害の心理学』 (2004,集英社(集英社新書))をご紹介いただき,「災害時に人が逃げおくれるのは,パニックにおちいるからではなくて,「たいしたことない」と思う「正常性バイアス」がはたらいて,身を守る行動が素早くとれないからだと書いてあります。」と教えていただきました。今回,そのような危機的な状況の中で,私たちのリテラシーが(わかりやすい形で)問われたのだと思います。
 影浦先生には,同志社大学在職時にも,講演会講師をお引き受けいただいたことがありました。そのときの記録はここにありますので,ぜひ『3.11後の放射能「安全」報道を読み解く』とあわせて,今回の連続講座参加者の皆さまには事前にお読みいただきたいと思います。影浦先生のご研究,ご論考は難しくて(私にはちんぷんかんぷん)というものが多いですが,子どもとの対話という形式で書かれた『子どもと話す 言葉ってなに?』(現代企画室,2006)は大丈夫な(!?)一冊です。この本に私は,言葉,コミュニケーションの力,について考えさせられました。