HCEを語る会に出席してきました。

 昨年度,『Here Comes Everybody:足立正治の個人史を通して考える教育的人間関係と学校図書館の可能性』の編集・出版に携わりました(目次がこちらで見られます)。この本は,自主出版ですので,数に限りがありますが,まだ私の手元に数冊残っていますので,ご関心をおもちいただけました方には,メールでご注文いただければと思います。
 さて,この本(HCE)を出版してみて,私は,過去の数冊の自著本では経験しなかった,「本というパッケージ」への愛着とある種の信頼をしみじみ感じることとなりました。過去の本たちは,執筆・編集までのプロセスで,もっと何かできた(書けた?)のではないかという思いがわいてきて,出版したとたんに,もういろいろ書き直したいような気もちが抑えきれませんでした。しかし今回は,昨年2010年3月21日に開催した足立先生を囲んでの会合の記録集という意味合いが半分,その会合の出席者によるリアクションの意味のエッセイ半分という構成だったことによるのか,過去を整理し,わたしたちの共同の物語を紡ぐ,という感じがしていました。できあがったときには,そんな物語を一本,書いたような感じだったのかもしれません。
 出版後,執筆者の人たち,読者の人たちが,どんなことを考えていたか,考えたか,を語り合う会合をということになって,今週の月曜日,8月8日の午後に,兵庫県民会館で,「Here Comes Everybody』を語る会」が開催されました。それに私も出席してきました。私は,開会の挨拶を引き受けていたのですが,そこで語ったことは,私がこの本をどう総括しているか,なのですが,奇しくも(おそらく誰も意図していなかったのに),その日の2つのご講演が,私からすると絶妙なかたちで開会の挨拶とつながり,また小さな物語が紡ぎだされた気がして,嬉しかったです。開会の辞で,私は,HCEにエッセイ寄稿を呼びかけるにあたり,足立先生と編集委員たちで,次のようなお題(キーワード)を提示したことを皆さんに思い出していただきました。そのキーワードとは,「ライフ・ヒストリー」「戦後教育」「一般意味論」「英語教授法」「からだとことば」「カール・ロジャーズ」「阪神淡路大震災」「橋を架ける」「ひろば」「生涯をとおしての学び」でした。この中で,「戦後教育」「一般意味論」「阪神淡路大震災」は,エッセイが寄せられませんでした。「戦後教育」と「一般意味論」は検討しているという人はいたのですが,最終的に現れなかったことを思い出すと,なかなか学術的にも聞こえ,ハードルが高かったかもしれません。「阪神淡路大震災」は,今なら,書く人がいるかもしれません。一方で,「ライフ・ヒストリー」には4人,「英語教授法」には1人,「からだとことば」には4人,「カール・ロジャーズ」には2人,「橋を架ける」には2人,「ひろば」には4人,「生涯をとおしての学び」には4人の方がエッセイを寄せてくださいました。編集しながら,これらすべてを何度も読んで,私がもっていた感想は,次のようなものでした。「ライフ・ヒストリー」は,一昨年の会合で足立先生がずいぶんと自己開示をしてご自身の人生を語ってくださったことに対する素直な共感・応答が寄せられたという印象。「英語教授法」で,松田さんが語った,サイレントウェイという英語教授法は,「からだとことば」にもつながっているのかな,ということ(足立先生が,英語教師でありながら,英語という言語だけを考えていたわけではないことに,松田さんは触発され,反応されたのかな,と思いました)。「からだとことば」については,20世紀には言語に過度に注目が集まっていたことから,身体論といった議論が起きていることにおそらく影響を受けて執筆者が多くなったのかなということ。「カール・ロジャーズ」については,寄せられたエッセイから,学校図書館に関わる私たちにとってのカウンセリング・マインドの重要性を改めて認識させられたこと。「生涯をとおしての学び」では,学校図書館の教育的意義に気づいた私たちは,自らが生涯をとおして学び続けているよ,という,子どもたちに背中を見せる,というようなエッセイが寄せられたように思ったこと。そして,何度か読んでいく中で,私にとってはおそらく最も大きな気づきがあったのが,実は,「橋を架ける」と「ひろば」に寄せられたエッセイであったのです。というのは,学校図書館の現場で日々,熱心に活動されている人たちの何人もが熱心に実現しようとしていることが,さまざまな溝に「橋を架け」て,「ひろば」を作ることなのか!としみじみ感じるようなエッセイがここに並んだからです。私という理論研究者が学校図書館について語る言葉の中に,こうした言葉は出てこない気がします。しかし,ここに並んだエッセイには,強い思いを感じました。
 そして,HCEを語る会で,アニマシオンの著名な実践家である青柳啓子さんが,ヨーロッパの町町に見かける「ひろば」を作りたいという思いが,ご自身の活動の底流にいつもあることを語られ,「ひろば」の実現という意味でHCEに共感したことについて話されたとき,やはり足立先生が作ろうとされ,そして甲南さんで実際に作られた学校図書館は,そしてHCEは(HCEというタイトルも,ここに皆がやってきて,という意味なわけですが),「ひろば」を作るということが最も重要な使命のひとつであったのだな,ということを思いました。
 一方でこの日の宅間紘一先生のお話には,私は,かなり個人的なところで刺激を受け,思いをめぐらせることになりました。お話は,宅間先生の大学生時代のライフヒストリーで,ご自身の大学時代の読書経験と青年期の読書を生涯の仕事としたことのつながりについてとてもすてきなお話がうかがえました。「「私」を探してもらえたと実感できる書物に出会えたときの喜びは何にも換え難いものです。」ということばがとてもとても印象的でした。このお話をうかがいながら,私も,大学時代に出会った二つの本が,私の今に大きな影響を与えていることについて最近考えていたので,読む(んだ)本がその後の人生にもたらす影響について,さらに思いをめぐらせることになりました。私にとってのそれは,春江一也氏の『プラハの春』(集英社,1997)と,宮本百合子氏の『伸子』(1928)でした。よくわからないながら読んだマルクスと,『プラハの春』,そして,プロレタリア文学・民主主義文学の代表的女性作家である宮本百合子氏の,女性の自立に関わる自伝的小説(この小説の最後の鳥籠の象徴が忘れられません)--これが,私の「青年期の読書」だったなと思い出しました。バブルが崩壊しつつあった20年前の大学には,この程度には読書を楽しむ女子学生が山ほどいたのでした。今は,どうなのかなあ。。と書いて,現代の大学生の読書傾向を自分があまりにも知らないことに愕然,反省。学生さんがよく,「先生,おもしろい本を教えて!」と言ってくるけれど,「おもしろい」って何のことを言っているのでしょう?学校図書館における読書案内,読書指導というようなとき,この「おもしろい」をどう受けとめて,どう応えるか,深めて議論する機会を見つけたいなと思っています(秋以降に立教で開催する連続講座のテーマである情報の「評価」の問題とも,関係があると思っています)。この宅間先生のお話から,読書の教育に関わって,もっと思索を深めたいという思いが強くなりました。