2019夏のシンポジウムの裏話というか...

 前回のエントリに書いたタコスのドキュメンタリの「強い個人」への崇敬の気もち。柚木弥太郎さんが,米国ニューメキシコ州サンタフェで還暦のころに訪れたInternational Fork Art Museumで見た心に"語りかけてくる"人形や,インドで出会った"いきいきとしたエネルギー"が表れている"目をキラキラさせ"た人たちから得たものを語った以下に先日出会って,畏れ多くもなんだか似たような感動な気がして,やっぱりそうだよなあ!と改めて。

 私はこの旅に出るまで,自分の仕事について行き詰まりを感じていた。染色の仕事をやめようかと迷っていた。ちょうど年齢は還暦の頃である。このまま染色を続ければ,あとはマンネリになり,自己模倣の繰り返しになるばかりだと。

 そんな時,サンタフェに来て気づいた。「何をやってもいいんだ,やるなら嬉しくなくちゃ,つまらない」と。自らの呪縛から解放された瞬間だった。

(柚木弥太郎『柚木弥太郎:92年分の色とかたち』グラフィック社,2014, p.153.)

結局,自分が自分を縛っていることがかなり多くて,それは,近代人のお作法として身に着けることが求められている"理性(reason)" つまり,人間がもつ"推論(reasoning)" の能力なのかもしれないが,なんだかつまらないよなあと。

 

 ところが先日,足立正治先生と久しぶりにお会いして,8月のはじめに札幌で行ったシンポジウム(今井福司先生に整理してアップしていただいてyoutubeに映像あり;活字にしたら映像は削除しまする)やその前後のゲストたちとのいろいろを話していたら,結局,自分のことも公平に扱うためにはcritical thinkingなんだよなあという話になっていった。いろいろっていうのは,私の偏見やらなにやらが満載の話なのでここに書くべきではなかろうが,要するに,文化的に大きく異なるところで育った私たちが互いを理解し,合意できるところを見出すというのはいかにして可能かということを考えたという話です。私はアメリカ文化大好き人間を自認しており,アメリカ人とばかり付き合ってきて,アメリカ人に囲まれて,自らすすんでアメリカ人(の思考や行動)にすり寄ってきた。きっと一つの典型的な戦後日本の人間ですね...。ただ,この夏のシンポジウムも経て,また近年,私はアジアやヨーロッパの諸国,オーストラリアとの交流が増えてきていて,やっぱりそういう態度で通しきれない自分や,場面を経験するようになってきたわけです。

 そこで,足立先生と,それならば国際的なコミュニケーションや合意形成の必要性が日常化している現代にあって,次世代の子どもたちには何を身に着けてほしいかという話になった。で,critical thinking,そしてRichard Paul博士のお名前が出てきたと。足立先生はPaul博士に直々に薫陶を受けておられて(こちらのブログ参照),以前からそれについてうかがうことはあったのだけれど,今回やっと私の心に届いたらしく,自ら調べるに至りました。ネットに,彼の後継者と言ってよいだろう方というか(まあ端的に言って奥さまですね)が書かれた,Paul博士の簡単な伝記が出てきて,なんとまあ,彼の研究の中心が,reasoningだっていうじゃないですか。ふーん,と思って,もう少しreasoningやcritical thinkingをよく考えてみないと,アメリカの学校図書館研究・実践でよく語られる(information)literacyの理解も深まらないのだろうなと思い至りました。しかしcritical thinkingは(英語で)大量の文献があって,教育実践の提案もいろいろな流派というかがあるようだ(Paul博士のものはその一つ。だが,広く受け入れられている模様)

 information literacyの話は,札幌のシンポジウムでも出てきたが(というか北米の学校図書館関係者と話したら出てこないことはまあない),やはりなんだか古びてきてしまい(エエッ,古びてしまうようなもの=普遍的ではないものだったの❔),北米の関係者ももう少し違う角度で学校図書館を語りたくなってきているようだ。90年代から00年代にかけてのinformation literacyがbuzzってた時代はもう終わったことは確かですよね。実際,立教の学生さんたちと一緒に,アメリカ・スクールライブラリアン協会(AASL)の新しい基準を訳しているのだが,アメリカの学校図書館研究は何か新しいものを出そうとしている(出してきた)。しっかし今回の基準はとにかく複雑で...盛り込みすぎということなのかなあ。