「真理」

 すでにけっこう昔になっているが、そうは言っても、20年は経っていない。私が研究者をしてご飯を食べられたら、という希望を自覚したとき、真理を追究したい、と思っていたと記憶している。大学で出会った先生たちにあこがれたのだと思う。
 その後、「真理」の定義は哲学的で、自分の「真理」観は(カトリック信者の家庭に育っているから当たり前といえば当たり前だが)かなり一神教キリスト教社会のものに影響されていて(もともと「真理」は明治に生まれた翻訳語だということだし)、というようなことを自覚するようになって、口はばったいというのか、自分でもよくわからなくなったのか、「真理の追究をしたいから研究者です」が、人前で言いづらくなった。でも、内心はシンプルにそう思っている。
 若者が好きだから、大学でのいわゆる教育活動は楽しい。でも、自分は、教師として、というより、研究者として、学生と一緒に学び、真理を追究していきたいなと、これまた口はばったくて?、人前で言いはしないが、でもそう思っている。そして、すごくいい仕事だなあ、と日々、感謝、感動している。
 そんなふうに「真理」と付き合って生きて、仕事をしてきたので(ココ、"ので"で繋いでいいのかな)、そんなふうに考えないで研究者になっている人の存在を見せられると、ただむしょうに悲しくなる。そして時に怒りも感じる。自分が憧れ、なんとかいさせてもらっている研究者コミュニティに、志が同じではない人が案外多いのだと知らされてしまうことが悲しいのだろうか。
 昨夜、夕食を作りながら理研の会見を見ていたが、学校司書法制化問題と合わさって、悲しいやらなにやら、ぐっちゃぐちゃでした。。理系の科学的真理っていうのは、文系の研究で得られるものとはだいぶ違うようにも思うし。(STAP問題も、遠藤高帆氏の研究が、決定打かなと私は思っている。)
 とにもかくにも、今、自分が何をしたいのか、生きることや働くことの原点が問われていると感じています。
 似たような思いで図書館研究を志している仲間っているのかしらと思って書いてみた。けっこう孤独を感じているのか?、ワタシ。