『われらの子ども』

 もう20年以上前のことになっているが、教育学をやっぱり学びたいと考えて大学院に進学した(学部時代は国文学を専攻していたので、専攻を変えたのだ)。そのときに漠然と考えていたのは、親とは違う関係性で子どもと関わる存在になりたい、ということであった。また、関係性が出会った時点で明確にされていない関係がよいなとも思っていた。例えば、生徒と先生、といった形ではなく、ということである。社会の制度化が進んでいるので、人間関係も制度を前提にすることが一般化していて、そんなことは難しいのだろうなということはまあ、言葉にはならない理解としては当時からもっていた気がします。かつ、経済的自立というのも課題としてもっていたので、結局、教師業に就いてしまった。でも、人生で出会う、親ではない、年上の人間、が私が第一に自覚している学生との関係ではあり続けています。
 いっぽうで、尊敬する鶴見俊輔先生が、『教育再定義への試み』(岩波書店, 1999)を出版したとき、教育のどこを論じているかと思ったら、母親との関係からはじまって、ご自分の経験に基づいて語ったという形式のものだったので、これが教育に関する本か、となんだか拍子抜けしたのをしばしば思い出す。タイトルに「教育」という文字を見つけて自分は何を期待してその本を手に取ったのか、ということも考えるし、親との関係が人に一生つきまとう教育の根本だということが鶴見氏が晩年に考えたことなのだなあ、ということもずっと抱えている。
 この春に観た3本の映画で、この後者、親との関係ということの大きさについて改めて考えさせられた。それは、「The Accountant」(邦題ザ・コンサルタント)と、「Captain Fantastic」(邦題はじまりへの旅)。そして、かの有名な、Forrest Gump(フォレスト・ガンプ)。
 『ザ・コンサルタント』は、国際線に乗るたびに観て、結局3回半くらい見てしまった。銃による殺人のシーンが山ほどあって、銃声がものすごい音量なので、本来、私の好きなタイプの映画ではないし、観るはずがないものだが、ベン・アフレックね(嫌いじゃない)と思い暇つぶしに一度観たら、あまりに印象的で、英語ですべてを聞き取って理解できないものかと繰り返し観てしまった。この主人公はアスペルガー症候群なのだが、母親と父親が育て方について意見対立をしてしまい、結局、父親に徹底的に(父親がしかるべきと思う方向に)矯正するような形で育てられる。実際には、この主人公の描写はアスペルガー症候群の特徴とは言い切れない部分がいくつもあるようだけれど(英語で検索するとそういう議論が出てくる)、もちろん、アスペルガー症候群の人間が全員いっしょなわけもなかろうし、あまりそこにこだわらなくていいのではと思っている。発達障害の子どもを、いかに育てるかという問題提起もしている映画だと思った。
 『はじまりへの旅』も、これまた相当エキセントリックな親の話で、そうなのだけれども、なんというか、アメリカ社会のよくいるハイソな親、家庭との対比がすごく興味深いのです。妹の家庭とすらまったく会話が成立しないような状況になっていて、お互いの子育てに口を出せない、出そうとしたらもう大喧嘩になるというような、そういう状況の描かれ方がコミカルなのだが、もんのすごいリアリティがある。今の日本でもそこかしこにありそうな話だ。子どもは親を選べないとはよく申しますが、改めて、そうなんですね〜。でも、エキセントリックな親だけど、不幸な家族じゃ、ないんだよね〜。そこが、俗に身をおきながら見ている側(私)からすると、ツライというかなんというか。それに、この家族、エキセントリックと言って、学がない家庭じゃない。そうじゃなくて、ハイカルチャー志向で、エキセントリックなのです。そこにも、考えさせられる。
 でもって、フォレスト・ガンプ。テレビで再放送を偶然見かけ、雷に打たれたかのような衝撃を受け、後半ずっと泣きながら観てしまった。なにがこんなに今の私に衝撃を与えたのかと思い、数日後にもう一度、はじめから観てみた。ひとつはこの時代。ジェニー(Forrest's MY GIRLですな)の墓石を見ると、July 16, 1945 - March 22, 1982とあって、戦後直後の生まれであることがわかる。戦後のベビーブーマー。この世代が青春時代に経験したことがずっと描かれているわけだけれど、歌手になろうとしてみたり、カリフォルニアに行ってヒッピーになってみたり、と彷徨うジェニーの生育歴がほんとうにつらいものであることに、今回、改めて気づいた。ヒッピー仲間たちも荒んでる(UCLAのエリート学生だがDV男なんてのも出てくる。彼の生育歴も気になる...)。しかし一番、私にとって泣けたのは、"I am not a smart man, but I know what love is."というシーンと、"Is he smart or..."というシーン。彼が、みんなにsmartではない、というレッテルを張られ続けたことにいかに傷ついてきたかがわかる。ジェニーに求婚して断られる流れで、また子どもが生まれていたことを聞かされたとき、彼の口をついて出てくるのが、"smart"かどうかということなんだよね。ただ、彼が、母親の愛情に関しては、疑うことが無かったというのが救いなのでしょうね。。
 
 まあ、そういう映画を観て、アメリカの現代、そして戦後の社会や教育について軽くですけれど考えていたら、ものすごい本が届いてしまった。それが『われらの子ども:米国における機会格差の拡大』(創元社, 2017)Our Kids: The American Dream in Crisis)であります。前フリが長くてすみません。
 この本は、以前もこのブログでご紹介した柴内康文先生の新しい翻訳書で、原著者はパットナム(Robert D. Putnam)です。このパットナム先生は1941年生まれで、フィクション(映画)といっしょにして語ってよいかわかりませんが、フォレスト・ガンプたちとまあ、同世代?で、フォレスト・ガンプの中で、アラバマ大学への初のアフロアメリカンの学生の入学、ベトナム戦争ワシントンD.C.での反戦集会(1960年代)、ウォーターゲート事件(1972年)なんかが描かれているが、つらいできごとばかりに見えて、カウンターカルチャーもエネルギッシュで、どこかに楽観的で昇り調子の雰囲気が漂う(あくまでも私の見方ですが)。そのような、1940年代前半生まれくらいの人たちの青春の時代を経て、1970年代以降、アメリカ社会がいかに平等化傾向から格差拡大傾向に転換し、今や富裕層と貧困層の分離とも言うべき状態にまで進行していることが、『われらの子ども』では、ライフストーリーの聞き取りの分析と各種の統計や先行研究の整理によって示されている。
 正直に言えば、1980年代後半にアメリカにはじめて滞在したとき、ボストンの都市部で白人のホームレスを見かけたのが印象的だったので、アメリカ社会は(人種というよりも)貧富の差があるのだ、と頭に植えつけられてしまったいた感じが私にはある。とはいえ、白人の多いアメリカの図書館関係者の中で、たまにアフロアメリカンの人に会うと、けっこう赤裸々に自分たちの受けている差別の実感を語ってくれる人もいて、また、唯一、ノースカロライナ州が私が訪れたことのある南部なのだが、ここでは、主として白人が通う大学、アフロアメリカンの通う大学が今もあってということを目の当たりにして、人種ということを抜きにアメリカ社会を見ることはできないということも、図書館関係者のような概してリベラルな人の集りでアメリカ人と出会ってきた私にもわかってはいたつもりではある。『われらの子ども』では、しかし、人種というよりも、あえて、階級、という切り口で現代アメリカ社会の分離を明らかにしている。この「階級」というのは、多くの日本人には驚きかもしれないが、親の教育水準である。上層中間階級=四年制大学の卒業生(とその子ども)、下層もしくは労働者階級=高校より先に進んでいない親(とその子ども)と分けて、両者の分離されたアメリカ社会を描き出している。インタビューの記録が多く、かなり生々しい。
 ただ、「『われらの子ども』のストーリー」(p.293-308)では、この本の中心となるインタビュー調査の背景が明かされているのだが、なんだかこう、そうかー、同じアメリカ人でもここまで労働者階級が見えなくなっているのか、と感じさせられる記述が散見されて、なんだかほんとかなあと。読み手になにかの配慮しているのか、それともほんとうに新たに知って驚いて書いているのか。だいたい想像のつくようなことが、新たな発見だったかのように書かれている感じがするところがあるのだよね。例えば次のような記述(「ジェン」とは調査実施者)。外国人の方が、こういう経験が理解しやすいということなのかなあ。それとも、社会学のインタビューの分析って、あたりまえ、を排除した記述法が必要ということかもしれないかなあ。

若く、黒人で、労働者階級であるということがどういった感じなのかをわれわれが一瞬で知ることになったのは、ミシェルがジェンとともにクレイトン郡を注意深く運転していたときのことである。彼女は軽微な違反で警察に止められることを恐れ、また荒っぽい近隣地域の危険をジェンに警告してきた。

 ところで、この本には、司書、図書館がポツポツと出てくる。パットナムは、Putnam, Robert D. and Lewis M. Feldstein. Better Together: Restoring the American Community. New York: Simon & Schuster, 2003.の第2章で、シカゴ公立図書館ニアノース分館が、貧富の格差のある 2つのコミュニティの境界に建設され、両コミュニティー社会関係資本醸成の場となったという話を書いている(この本は日本語訳が出版されていないのが残念)。図書館の社会的な意義について理解のある社会学者なのだ。今回の本では、インタビューで、スクール・ライブラリアンが前向きで勇気を得るような助言を与えた話が複数、紹介されている。図書館が視野に入っているのだなということは全編を通して感じたのだが、笑ってしまったのが、社会階級についての説明で例外として、「例えば教育水準は高いが給料の低い図書館司書、あるいはほぼ無学の億万長者」(p.55)と書かれているところ。この2つの例示の対比!いや、笑いごとではないですね。まあ、世界共通の図書館関係者の悩みであり、ここは図書館専門職に関する分析のしどころでもありましょう。
 巻末の「訳者解説」(p.315-327)は私のこの本の理解を進めてくれてありがたかったのですが、特に、「各章のテーマとインタビューの登場人物」の表(p.318)は、著者たちが作らなかったのはなぜなのというくらい有用。特に社会学や教育学等の先行研究と関連づけて議論するあたりになってくると、各章のインタビュー協力者の名前が入り乱れてくるのだが、これだけ厚い本だと、えっとこれは誰だったっけと思い出すのに、私程度の能力の人は一苦労。この表は使えますので、秘密兵器として(?)、みなさんにお教えしておきます(笑)。
 日本でも、教育はどんどん、私事化してきていて、他の家庭の教育を覗くこと、ましてや意見することなんて、できなくなっていると感じる。親によって、『はじまりへの旅』のそれぞれの家庭があまりに違い、意見交換もできなくなっているように。ただ、パットナムは、アメリカでは、家族以外の大人が「助言者(メンター)」となり、「実際知(サヴィ)」を与える事例があること、といっても上層階級の子どもの方がずっと多くを得ていることを指摘している(p.240-244)。私個人は、ここがアメリカと日本は違うんだよなあ、というところ。家族ではない他者に出会わせよう出会わせようとする、というベクトルが、アメリカの(上層階級の)親にはあるのだよなあ。日本の教育熱心な親たちには抱え込みのイメージをもっているが、気のせいか、被害妄想か?
 大部の本で、気になるところがたくさんあり、短時間で書いて紹介しようとしてもまとまりませんが、アメリカだけでなく、日本の教育を考える際にも新しい切り口、視点を提供してくれると思います。翻訳の質も信頼でき、読みやすいです。こういう翻訳ができる人間になりたいものだ。。。