美輪明宏さん〜これからの学び

 宝島社の「いい国つくろう,何度でも」の広告の衝撃がなんとなく消えないでおります。ケビン・メア氏の『決断できない日本』文芸春秋社,2011(文春新書821).のタイトルにも,考えさせられながら,まだ入手できておりません。判断し決断し行動する--この部分について,情報との関係から考えてみたい,ということも,今度の連続講座の企画にあたって,考えています。(連続講座は,今回,いちおう,事前申込制としており,締め切りは今週末になっていますので,参加をお考えの方はお申し込みをお願いしたいと思います。)
 ところで,ここのところ,ピカチュウの生まれ変わりという美輪明宏さんのインタビューを目にすることが続けてありました。『婦人公論』,『週刊朝日』,そしてたしか『読売新聞』--すみません,どれも買ったのではなく,公的な場に置いてあって。美輪さんの舞台を一度は見てみたいと長年思っているワタクシですが,長崎出身,ピカチュウの生まれ変わりを自称,という以外は,美輪さんについてほとんど知らなかったので,被爆者ということも,今さら知りました。いやはやしかし,『婦人公論』2011.9.7号の記事はとっても勇気づけられるものでした。この表紙の「権威や権力を信用していません」も,インパクトありますな!私が読んだ記事で美輪さんが一貫して送っているメッセージは,日本社会はよくなっている,というものだと思いました。でも,『婦人公論』の記事には本当に勇気づけられました。仮に本心は不安で見とおしが暗いと思っていても,後輩たちには,(変に自分たちの世代のやってきたことを正当化するというような意味ではなく)社会はよくなってきてる,だいじょうぶ,希望をもって,と言える自分でいたいなと思っています。
 最近,吉見俊哉先生の『大学とは何か』岩波書店,2011(岩波新書(新赤版)1318).を読みました。私自身,大学教員として禄を食んでおり,これからの大学のあり方について,特にこの春に勤務先を変えたばかりですので,考えたい気もちが強くなっています。おととい9月10日付の『読売新聞』の文化面の「昭和時代 第1部 30年代」によると,今,大学の教員は常勤だけで約20万人もいるんだそうです。多いなあ!少なくともその20万人はみんな,これからの大学のあり方について,考えているのだろうなぁ。。
 『大学とは何か』で吉見先生は,大学の歴史をずっと追ったうえで,これからの大学像を最後に示しておられます。そして「あとがき」で,吉見先生は次のように議論をとても端的に整理し,大学を"メディア"であると述べておられます。

 それでももし,本書を貫いて大学に何らかの定義が与えられるのなら,それはたぶん次のようなものだ。―大学とは,メディアである。大学は,図書館や博物館,劇場,広場,そして都市がメディアであるのと同じようにメディアなのだ。メディアとしての大学は,人と人,人と知識の出会いを持続的に媒介する。その媒介の基本原理は「自由」にあり,だからこそ,近代以降,同じく「自由」を志向するメディアたる出版と,厭が応でも大学は複雑な対抗的連携で結ばれてきた。中世には都市がメディアとしての大学の基盤であり,近世になると出版が大学の外で発達し,国民国家の時代に両者は統合された。そして今,出版の銀河系からのネットの銀河系への移行が急激に進むなか,メディアとしての大学の位相も劇的に変化しつつある。(『大学とは何か』,p.258)

"大学"と"図書館"と"出版"・・いずれもが"メディア"であり,そして"大学"も"出版"も"自由"を志向して,"対抗的連携"をしてきたというのです。さて,"図書館"も"自由"を志向していると思っていますが,出版界とは無料貸本屋の議論などに見られるように,"対抗的連携"をしていますけれど,"大学"と"図書館"は"自由"を志向して"対抗的"ではない"連携"をしてきたと言っていいのかな?今,『メディアとしての図書館』という吉田右子さんのご本(吉田右子『メディアとしての図書館:アメリ公共図書館論の展開』日本図書館協会,2004.)のタイトルがふっと浮かびましたが,すぐには思考がつながってきません。。
 さて,それで,吉見先生は,本論部分で,上記のような"大学"は"メディア"だというお考えにもとづいて,これからの大学について,次のように書いておられます。

ジャック・デリダ前述の大学論において,「条件なき大学」の重要性を再提起した。私たちはポスト国民国家体制の未来において,「あらゆる類いの経済的合目的性や,利害関心に奉仕するすべての研究機関から大学を厳密な意味で区別しておく」ために,大学のなかに「無条件で前提を欠いたその議論の場を,何かを検討し再考するための正当な空間」を見出さなくてはならないのであり,それは「この種の議論を大学や<人文学>のなかに閉じ込めるためではなく,逆に,コミュニケーションや情報,アーカイヴ化,知の生産をめぐる新しい技術によって変容する新たな公共空間へと接近するための最善の方法を見出すため」にそうなのである。(中略)
 二十一世紀半ばまでに,大学は退潮する国民国家との関係を維持しつつも,それらを超えたグローバルな知の体制へと変貌していくだろう。(中略)すでに述べてきたように,私たちの時代は一六世紀に似ていなくもない。時代が中世から近代へと向かったあの時代,新しい印刷技術が爆発的に普及し,それまでの都市秩序がより大きな領邦秩序に呑みこまれていくなかで大学は衰退した。ところが今,やはりデジタル技術の爆発のなかで地球大の秩序が国民的な秩序を呑みこみながらも,時代はむしろ近代からより中世的な様相を帯びた世界に向かっている。そうしたなかでの大学の再定義に必要なのは,近代的な戦略とは根本的に異なる何かである。
 実際,ますます莫大な情報がネット空間で流通し,翻訳され,蓄積され,検索され,可視化されていくなかで,大学にはやがて新しい世代が登場し,彼らは地球上の様々な知識運動と連携しながら新たな知を編集し,革新的なプラットフォームを創出していくことだろう。中世以来の名門大学が近代に生き残ったのと同じように,現代の主要大学はポスト国民国家時代にも生き残るだろうが,その時代には,都市や国家を基盤にするのではない,まったく新しいタイプの大学もデジタル化した知識基盤の上に登場してくる。私たちが生きているのは,そうした新時代へのとば口である。(『大学とは何か』,p.254-256)

 学びのあり方が,これから変わって行くということを,"メディア"と"大学"についてこの本をとおして考えたとき,改めて確信しました。これまで私は,アナログな出会いとコミュニケーションに過剰にこだわっていたことを,上記の記述で自覚しました。今も私は,"身体"(というおそらく"メディア")に興味がありますし,自分がアナログな出会いとコミュニケーションの重要性を否定するときがくるとは想像できません。しかし,あらゆる"メディア"との接触から,私たちの学びが構成されているということはそうだと思いましたし,そのように学びを再構築していくということでいいのではないか,と思いました。ちょっと話が飛びますが,学校図書館関係者の学びのブログをつなげていけないかなあとかも,考えました。(学校図書館関係者が,自身の学びを綴ったブログってほとんど無いですね。。そんなブログを付けておられる方がおられたら,ぜひご連絡ください。私のブログと互いにつながっていただきたいです。)
 またまた話が飛びますが,先日,携帯の調子が悪くなり,機種変更をして,とうとうAndroidを使うようになりました。それでいろいろアプリを見ていて,Libraroidなるアプリを知りました。Android Marketのレビューには,「今日,このアプリを使って初めて図書館で本を借りた 。」というものがあります。どういう意味だろうとしばし考えました。「このアプリを使って」みて,「初めて図書館で本を借りた」のなら,スゴイな,と。違うか(笑)。「福井県立図書館が対応していなかったので開発者の方とコンタクトをとって対応して頂きました。」というレビューも。(私からすると)スゴイ!図書館の使われ方が変わってきているなとつくづく。あと,この携帯端末を買うとき,この電子書籍端末(biblio Leaf)を5,000円だかで買いませんか,と誘われた。とうとう電子書籍がそんな値段に!というのと,とうとうこんな形で売られるように!というのと,二重に驚きました。この,端末を安くして買ってもらって,ソフトで継続的にお金を払ってもらうという,プリンタ販売などと同様のビジネスモデル(携帯端末もかつてはそうだったんでしたよね)が,電子書籍の世界でも使われているという理解でよいのでしょうか。
 今日もまとまりませんが,長くなったのでこのへんでやめておきます。