学校図書館の職員配置のあり方

 日本の学校の校務分掌の問題(弊害)は、もう何年も前に、佐藤学先生が指摘している。たとえば著書『授業を変える 学校が変わる』(小学館、2000)では、次のように述べている。

 日本の教師の労働時間の平均は週あたり52時間に及んでいる。労働省の基準を12時間も超過する多忙さである。ところが、授業、授業の準備、研修、カリキュラムづくりなど、専門家としての教師の仕事の時間は、そのうちの半分程度に過ぎない。ほぼ半分近くの時間がさまざまな会議や雑務に費やされているのである。多くの学校を訪問して気づいたことだが、教師同士の仲の悪い学校ほど分掌や委員会の数が多く、複雑な組織と機構になっている。そして、細かく役割が分担され複雑な組織や機構の学校ほど、学校全体の事柄にたいする教師の責任感が希薄である。いくつも役割を重ねて分担し会議に追われる日々のなかでは、自分の役割は会議でしか意識しないし、他の人の役割には無関心になってしまう。複雑な組織や機構は、一人ひとりの仕事を断片化するだけでなく、全体にたいする責任の意識を失わせてしまうのである。
 もっと重要なことがある。複雑な組織や機構は、仕事の中心であるべき教育の専門家としての仕事を空洞化させ、周辺の雑務を増大させてしまう。教師としての中心の仕事を文字どおり中心にするためには、思い切って学校の組織と機構を単純化する必要がある。(p.97-98)

 日本の多くの学校には、図書(館)担当とか図書(館)主任とかいう校務分掌があって、この先生が司書教諭と違うことも少なくない。より多くの人が学校図書館にかかわるのが良いという考えなのか、日本独特のジェネラリスト(generalist)をよしとする職場文化なのか。
 しかし、結果として、学校図書館の仕事が、ほんとうには誰の仕事なのか、わからなくなっているように私は思う。佐藤先生の文章でいうと、図書(館)の仕事も、教師の「周辺の雑務」なんだろうなあと思う。みんなが「周辺の雑務」と思っている状況で、その人たちを学校図書館の担当として数えても、ほんとうには学校図書館はよくならないし、学校図書館の教育的意義を実感できるような運営は実現しないのじゃないだろうか。(佐藤先生が、教師以外の学校内の専門職を認める立場かは確信がないけれど。この文章も、違うふうにも読めるかもしれないけれど、私はここでは校務分掌を複数担当する、校内の仕事を兼任しまくる教師の問題の指摘として、取りあげました。)

 最近、私の耳に、ふたつの問いかけが聞こえてきた。
 Q1、専任司書教諭がうまくいかないことは、戦後の歴史を見れば明らかではないか。
 Q2、私は、読書サポーターズ会議が提案した学校司書と司書教諭の役割分担表は気にいっている。現場で2職が実態に応じて分担し、決まらないときは上司(校長職)が決めるやり方である。実態に即していると思う。
 
 この2つの問いかけに、答えておきたい。そして、なぜ学校図書館について、教育職の図書館の専門職(単一)が望ましいと私が考えているかを少しでも説明したい。それはひとつには、上記の、みんなで仲良くゆる〜く分担しよう方式の弊害、があるからである。もちろん、単一専門職配置にも問題は生じ得る(ジェネラリストを愛する日本のみなさまには、すぐにいくつもこの問題はあげられるでしょう)。専門職の乱立はここ100年の(米国発の)できごとだと思いますし、それはそれで、いくらでも批判ができますし、すでにされてきました(かのE.サイード先生もしてるのじゃ)。今、福島の事故のあとの専門家批判を見ても、いっくらでも、うなずける問題の指摘はあります。それでも、わたしは、近代が終わると同時に、専門職がまったく無くなるとか、無くなるべきとかは思わないし、図書館・情報の専門職は、やっぱり社会的に意義があると思うのです。ま、数十年後に見たら、これ、断末魔の叫びかもしれませんけれど(笑)。お洋服なんかのトレンドでも同じですけれど、バーっとはやって、それで消えるものと、定番として定着するものとある。図書館・情報専門職はどうなんでしょう。この100年で、終わり?

 で、Q1ですけれど、わたしは、専任司書教諭が一部の地域(愛知県、高知県、東京都、占領下沖縄)で1950年代から60年代に実現しながら、結局、広まらずまた配置が続かなかったことについて、実証的な研究はまだはじまったばかりだと認識しています。安藤友張氏の一連のご研究に学んで、さらに個別事例ごとに突っ込んだ実証ができるのではないかと思っています(おそらく安藤氏がそうした研究を継続されていることと思います)。先日、高知県を訪問し、図書館、学校図書館関係者と面談する機会を得ましたが、高知県の小・中・高校に一時期、専任司書教諭の配置が実現したことは、現在も高知ではいくらかその影響を感じることができると私は思いました(面談した方たちからもそのようなご発言あり)。また、配置が進まなかったことを、専任司書教諭制度の問題としては受けとめていない人たち(教員)もいることを確認しました。むしろ、財政とか、他府県の状況、または校長の理解の限界とかいったことに影響されて破たんしたと考えている方もいらしたようでした。また、いつも思うのですが、中国四国地方をはじめとして、地方の司書の養成は、実態がなかなか私には見えません。高知についていえば、高知大学で司書教諭講習が実施されていますが、司書講習や司書課程については、聞いたことがありません(文科省発表の今年度の司書教諭「講習実施機関」「司書及び司書補の講習実施大学一覧」「司書養成科目開講大学一覧」)。おそらくこうした養成の問題もある。また、LIPER第一次の学校図書館班の中間報告書でも指摘した「隠れ司書教諭」となる動機のような、そういう教員文化の問題ももちろんある。いくつもの問題が専任司書教諭配置の打ち切りの背景としては推測されて、でも、私見では、実証はいまだ途上、つまり現時点では実証は十分にはされていないし、その打ち切りの構造が一定程度明らかにされたとは、現時点では、言えない。また、さまざまに推測している要因には、単一の学校図書館専門職や専任司書教諭そのものが必然的にもってしまう問題と、その周辺の問題であって解決可能なものとが混在している。これらを丁寧に議論しないといけない。わたしは、日本では単一の専任の教育系の学校図書館専門職が実現する土壌がない、それは専任司書教諭の配置の失敗で証明された、とは現時点では、思っていません。

 Q2については、これは、専門職の自律性の問題でもあります。医師と看護師、弁護士と司法書士行政書士、管理栄養士と栄養士、、それぞれの専門職が専門職として成立するときには、それぞれの職務、権限と責任が明確にされます。なんだかよくわからないけれど、二つ、みたいなことでは、、共倒れでしょう(看護師さんの専門職の自律性に関する議論はたとえばこんな論文があった)。それから、企業(組織)の意思決定と教育専門職と学校の意思決定とは、必ずしも一緒に議論できないところがあります。今、大阪府の「大阪府の施設における国旗の掲揚及び教職員による国歌の斉唱に関する条例」の是非にもつながるような話です。米国でおととい、教師のストがあったみたいだけれど(ちょっと長めの記事見つけた)、これも、労働運動ではあるんだろうけれど、教師が専門職として教育のあり方にどこまで自律した判断をするべきかという問題でもあるんじゃないだろうか。学校で起きることはすべて校長判断に基づくと簡単に言ってしまうのは、わたしは好ましくないと思う。教育には当事者の子どもの権利(たとえば、国連の「児童の権利に関する条約」参照)、親の権利(たとえば、日本国憲法に関連して、文科省の説明)、それに、教育専門職の判断がかかわっていくんだよね。教育専門職は、学校という組織の一員でもある。そのあたり、よく整理する必要がある。まったく、簡単じゃありません。教育の公共性と教育専門職の自律性というような観点からも、先行研究というか、議論が多いところで、いくらでもネットにも情報あります。とにかく、この問題は、簡単に言い切るのはいちばんだめです。

 十分に答えられていないとは思うが、Q1およびQ2について、質問者の問いに直球で答えておらず、若干、ズレてしまっている一面もあるが、周辺をふくめこれまでの議論の概況を示し、論点は一定程度示したように(少し不安だが)感じるので、取り急ぎアップします。