アバディーンの図書館

 図書館情報学のオンライン・プログラムを提供しているRobert Gordon Universityで教育の実態についてインタビュー調査をするために、スコットランドアバディーンに行ってきました。アバディーンに3日、滞在した間に訪れた図書館について、ここにも少し書いておきたいと思います。ちなみに、この大学の創立者であるRobert Gordonさんという方はですね、昨日知ったのですが、今のポーランドグダニスクDanzig)でビジネスで大成功して富を作ったという方だそうで(参考;英語のページです)ポーランドに寄ってから調査に来た私には奇妙なご縁と感じられました。スコットランドって、フランス、ポーランドなんかと歴史的に深いつながりがあるのですね〜
 学校図書館は2館、訪問しました。ひとつは市内中心部にある公立の中等教育の学校(6 year comprehensive secondary school)で、生徒数は約900人の学校です。もうひとつは、インターナショナル・スクールで、生徒数は300人くらいだということでしたが、アバディーンは石油の街なので、石油ビジネスが盛んな時期は500人だったこともあるとのことでした。ともに、正規・専任・専門職ライブラリアンが配置されていました。公立学校の図書館では中学生の授業を見学させてもらい、インターナショナル・スクールではプレスクールの授業を見学させてもらいました。いわゆる読書/図書の時間のような授業でした。
 公立のこの学校図書館のライブラリアンの方は、元・英語教師でした。学部卒の後、最初はトルコのインターナショナル・スクールで教えていたそうです。そして、アバディーンに戻り、図書館学のpost-graduate(学部卒で入学可)を経て(修士号までは取らなかったそう)今のポストを得た、ということでした。彼女の学生との関わり方は、私の目には教師そのもの!ちょっとリベラルな、お母さんのような、お友だちのような先生、という感じです。生徒たちも彼女を教師の一人とみなしているように見えました。
 そこで、いかにも日本の学校図書館研究者の質問かもしれませんが(笑)、知的自由(日本の図書館関係者は「図書館の自由」と言うかな)について聞いてみました。「生徒は買ってほしい方のリクエストはしてくる?」「してくるわよ」。「これは買えないなあ、とかこの学校図書館には適切じゃないなあとかいったリクエストもある?ハリー・ポッターキリスト教の親の反対があるから読ませられないとか、無いの?」「Umm…let me think…」で長い沈黙…「記憶にないなあ。ハリー・ポッターも買っているわよ。そういえばそれにはおもしろい話があって、ハリー・ポッターを家に持ち帰れないからって学校図書館で読んでいる女子生徒がいて。親に怒られるからここで読んで帰るって。原理主義の親ね。私は生徒が読むかどうか、で買っている。読むだろうと思うものを入れるわ」。「性的な表現、暴力などは問題にしない?」「ううん。オカルトだって、ほら、入れているし。あのね、生徒たちは、if she thinks she isn’t ready for it, she won’t read it. if she feels uncomfortable with the book, she would probably say “this isn’t mine” and return it to the library.(もし彼女がその本を読む状態になっていなければ読まないだろうし、もし本を読んでて不快な感じがすれば、「これは私のじゃない」とたぶん言ってきて、返してくるわよ(注:この会話は、私の記憶から英語を起こしておりますので、表現の細部は違っていた可能性があります)」。おーー、生徒がmatureだ(成熟している)。そして、先生は生徒を信頼しているなあ。
 ただし、「図書館のコンピュータでゲームはダメ」だそうです。学校のパソコンには以前はフィルタリングソフトが入っていたのだけれど、今、何か政府の事情(コンピュータのシステムの変更中みたいでした)で入っていないそうです。ただ、以前、入っていたときに、コンピュータでゲームをしているのを見つけると、カウンターのPCから、その生徒の遊んでいるパソコンのゲームを遠隔操作で止めて、そうすると生徒が「あれ?」となるので、カウンターのPCから、生徒のPCの画面に「なにやってるの?」とメッセージを送ると、「え?なにこれ!」と生徒が驚いて、というのがほんとにおかしくて!とライブラリアンの彼女は笑っていました。「フィルタリング・ソフトが入っているのは生徒たちにあらかじめ言っていたの?」と聞いてみたのですが、まあ、モニターされていることに気づいた生徒がびっくりするっていうのだから、してたわけないですよね、この問いは流れました。図書館内のパソコンの状況をそこまで管理できる、覗くことができるという話ですから、知的自由の視点から言うとどうなのかなと思わなくもないのですが、ライブラリアンの彼女は教育の場で、決まりごとがあることなのだから、まったく当然という感じでした。図書に話を戻して、「ちょっと変な本ばかり読んでいるなという生徒がいたら、他の先生に言う?」と聞いたら、肯定的だったので、「何を借りたかも言ってしまうの?」とあえて突っ込んでみたところ、「何を借りたかということだけではなくて、行動として心配なことがあれば、適切な先生に連絡しておくのは、当然のことよね」ということでした。生徒の利用記録の守秘義務は、学校図書館における知的自由との関わりではすごく難しい問題だと思いますが、このライブラリアンの彼女に関して言えば、基本的には教育スタッフの一人として、行動するのだな、と理解しました。
 学校図書館のコレクションについて、日本の中学生にあたるクラスを読書の時間(英語の授業の一環)として学校図書館に連れてきた英語科男性教員にも聞いてみたところ、おもしろく読むならなんだっていいさ、という感じでした。とにかく、このクラス二十数名の中に、入学時に6歳程度の英語力と判定された子から、16歳程度と判定された子までいるのだから。とにかく読めるようになってほしい、と言っていました。この男性教員は、ライブラリアンの彼女のことを、みんなが忙しくなるようにする人なのだよ、と、笑って言っていました。ライブラリアンの彼女はこの学校に来て5年になるそうですが、この間、他の教員たちに、information literacyからなにから、いろいろ提案してみたそうです。そして結局、Accelerated Readers(イギリス版のHP)を導入したそうです。このシステム(商品)については、たしか以前もブログで書いたことがあるのじゃないかと思いますが、私が20年前にハワイ大に留学して図書館実習を3か月間、現地でした際、隣の中学校で導入がはじまったところで、他のライブラリアンたちが、これからはinformation literacy instructionの時代なのに、そんな古典的な読書推進のシステムを入れるなんて、という感じで批判していたのを聞いたりもしました。私も、そういうprogressiveな人たちに影響されて、なんじゃこりゃと思ったのですが、実際、広まったのですよね。まさかスコットランドでこれがうまくいっている例を、20年後に見るとは。私はほんとうに、先の読めない人間ですわ。。。
 Accelerated Readersは、英語科の先生たちといっしょに導入、実施しているとライブラリアンの彼女は考えているようでした。数年前までは違ったらしいのですが、最近は、少なくともフィクションについては、英国で出版されている、生徒の読むような本のほとんどがこのプログラムに導入されていて、読後のテストもあるので、買う前に確認したりすることも無くなった、とライブラリアンの彼女が言ったとき、英語科の男性教諭もどういう本が入っているかをある程度知っているような口ぶりで同意していました。子どもたちは、本を読み、テストで100点を取ると、カウンターで星をもらい、自分の名前を書いて、この写真の夜空に星を付けていく(けっこう無邪気に嬉しそうに)。また、いっぱい読んでテストに受かってという子の上位者ランキングは、学校図書館内の写真右手の掲示板だけでなく、学校の入口近くの掲示板にも貼りだしているそうです。
 そして、ライブラリアンの彼女が、午前の15分休みに、教員のお茶のお部屋に誘ってくれました。ソファがいっぱいあって、コインでお紅茶とスコーンを買って、教員たちが一息ついていました。男女半々くらいだったかなあ。来ない先生もいるけど、ここに来ると、いろんな人と出会えるから、それに学校図書館の専門職って学校に1人しかいないくて孤立してしまいがちだから、私は来るようにしている、と言っていました。この間、学校図書館には鍵を閉めてしまっていて、以前は開けたままにしていたのだけれど、生徒たちがめちゃくちゃにするので、もう閉めることにしちゃったの、と言っていました。お茶を終えて戻ったら、次の授業が学校図書館で行われるクラスの生徒数名が学校図書館の前で待っていました(笑)。
 「社交的(social)なのねー」と問いかけたら、「学校図書館はsocialな人しか務まらないわよ」と。「学校図書館に勤める人で、socialじゃない人はいないの?」と聞いてみたら、「図書館情報学を学んでいたときにsocialではなさそうな人もいたけど、そういう人は学校図書館は選ばなかった」と言うことでした。「教師の仕事が嫌で、学校図書館に移ったの?」という質問には、「ううん。教師でよかったのだけれど、学校図書館の仕事がしたくなったのよ。ただ、教師だったとき、採点(scoring)は嫌いだったわね。」「評価(evaluation)のこと?」「うーん。ずっと採点(scoring)しているのは、嫌だった」と笑いながら、言っていました。英語科はテストがまだまだ多いのかなと思ったりしました。
 彼女は、私に、できるだけ日常の自分の仕事を見せてくれようとしていたので、観察していたところ、生徒が本を次々返しに来るのに対応しながら彼女は「Do you like it?」などと必ず、本についての声かけをしていました。そして、次々、イベントをしかけているようでした。英語科の教員が彼女のせいで忙しくなる(笑)、と言うように、この日の授業の後半では、World Book Day(どうやら日本の世界本の日(=世界図書・著作権デー)が、日本とは違い、英国では3月第1木曜日になっているらしい)のイベント、「Design A National Book Token Competition」に誘っていました。生徒たちの中で、静かに読書をするのに飽きた子たちは、すぐにこのワークシートを取りに行って、ブック・トークン(図書券のようなものですかね)のための絵を描きはじめていました。そしてもうひとつ、彼女独自のBook Hunt(本探し)のイベントも企画していて、それに生徒たちを誘っていました。オーサー・ビジット(著者の招へい)イベントもしているそうです。
 一人でいろいろ準備して、実施して、よくやっているなあと思いました。分類、受入業務、配架もすべて自分でやっているそうです。「Library Clubはないの?生徒に手伝ってもらわないの?」と聞いたら、「クラブはない。生徒は以前、手伝ってもらっていたこともあるのだけれど、カバーかけにしても、配架にしても、きれいにできないし。生徒たちが一番やりたいのは、カウンターに座って、スタンプを押すことなのよ!それに、カウンターに入れるというのも、いろいろ置いてあって、気になるし」とのことでした。日本の先生なら、例えばカバーなんかは、汚くなっても、何度か練習させて、きれいにできるようになったら手伝わせてしまうような気がしますが、どうかなあ。まあ、コストのかかる話ではありますよね。

 さて、この翌日に行ったインターナショナル・スクールでは、プレスクールから11歳までは毎週、クラス単位で学校図書館に来て、ライブラリアンの読み聞かせやちょっとした調べもののワークをして、本を借りていくそうでした。12歳から14歳は二週間に一回、クラス単位で学校図書館に来て本を借りていく、そして14歳から18歳は、クラス担当の先生のリクエストに応じて、ライブラリアンがクラスに出向くということでした。このプレスクールの読み聞かせの時間を見せてもらったのですが、すっごくかわいかったです。一般的な読み聞かせでした。その後、借りて帰る本を探す時間がありました。子どもたちの中に、英語以外の本を探したい子がいたら、そのコーナーにライブラリアンの彼女が連れて行っていました。こういうふつうの読み聞かせの次には、ちょっとした調べものをさせる機会ももっているそうで、例えば、6歳のクラスに、「動物たちは暖かいところで生きられるか」という課題を出して、子どもたちが特定の動物が生きられるかを学校図書館で図書で調べる、といったことをしているそうです。でも、特定のプロセス・モデルを教えるというようないかにもの情報リテラシーの授業はやっていないとのことでした。先生たちに頼まれれば、著作権を教えたり、引用指導をしたり、するけれど、教科の先生たちもけっこう教えられるのよね、とのことでした。「それって、スコティッシュの先生?」と聞いたら「うん。あとアメリカ人とかね」ということだったので「アメリカ人の方が情報リテラシーを教えられる?(笑)」と聞いたら、「それは人によるわね。アメリカ人だからとかスコティッシュだからとかじゃない」と。
 彼女は学部で哲学と文学を学んだ後、大学図書館で1年間働いて、そしてロンドンで図書館情報学修士号を取得し、タイでインターナショナル・スクール学校図書館に勤めた後、アバディーンに来たということでした。インターナショナル・スクールの生徒の多様性が好きで、今の学校が生徒の年齢に幅があるのも楽しいと言っていました。一人で運営責任をもっていて、のこり、15人くらいの母親のボランティアがいて、毎日2、3人が手伝いに来てくれているということでした。ボランティアの人たちの仕事を決めて、用意して、指示をしてというのもけっこう大変そうだなと思いました。この彼女も、年に1回はオーサー・ビジットをしているということでした。
 アバディーン学校図書館では、自分で自分の読む本を見つけられるようになるというのがすごく重要だと考えられているのだな、と思ったのが、左の写真のミニ掲示を見たときでした(もっと小さい子たちの書架にも似たようなミニ掲示がありました)。これって、前述の公立のライブラリアンが自分で読むものは自分で選ぶでしょう、という趣旨の発言をしたことと一致する考えに基づいているなと思いました。小学生に、1ページに5つ読めない漢字があったらそれはあなたには難しい本だよと教えるとかいった方法は日本にもあると思いますが、その後、いかに本を読み続けるように、読書材の選択方法を教えていくかですよね。私は、大学にいて、しばしば、「先生、何を読めばいい?何かおもしろい本を教えて」と言われていて、いやその年の人に本を薦めるって難しいよね、私の専門分野じゃなくて、もっと気軽な読み物のことを言ってるみたいだしなーと思っていました。本を薦めるって、相手を知らないとできませんしね。こちらのインターナショナル・スクール学校図書館では、背に「Mystery」とか「Romance」とかいったシールを貼っていました(右の写真のように)。これも、生徒の図書選択のための工夫だそうですが、厳密なものではなく、この本はミステリーだな、とライブラリアンの彼女が判断して、シールを付けていると言っていました。これは、他の学校図書館の実践で見かけて、真似してみたら有効そうなので、継続していると言っていました。

 このほか、アバディーン公共図書館の中央館(Aberdeen Public Libraries Central Library)、Robert Gordon University Libraryアバディーン大学のKing’s CollegeのSir Duncan Rice Libraryに行ってみました。公共図書館はすごく充実していると思いました。スコットランドイングランド公共図書館の違いがわかっていないのだが、前川恒雄さんたちが英国の図書館を参考にしたというのもわかる気がしました。より歴史があり、伝統的な図書館観がちゃんとあって、日本人にはアメリカの公共図書館より馴染みやすいのじゃないかなと思いました。大学図書館は、Robert Gordonは新しい大学だけあって図書資料は少なかったです。Sir Duncan Riceは、ものすごい人が出入りしていて、ネット上でも大好評だったので、イザと思ったのですが、学生IDで入館を管理していて、私の方も時間がおしていたので、一階だけ見て出てきました。
 一階では、自動返却機が動いていました。わたくしが現在勤める大学では、自動貸出機はあっても、返却作業は人が一冊一冊をチェックして行っていて、時にoffensiveな印象を受けるので、もう返却も自動でいいよ、と16世紀から続く大学で自動返却機が動いているのを見て、改めて思ったのでした。。。人間を置くべきところとはどこか、ということなのですよね。日本では、妙なところ(要するに単純作業;貸出・返却のカウンター業務は単純作業ではないという議論もあるとは思うが、それは今の大学図書館や中規模以上の公共図書館のカウンター業務の現実からかけはなれていると私は思う)に人間を配置して、人間の思考や専門性の求められる部分がすっぽり抜けていたりする。なんで、単純作業に人をしつこく置いて、専門性が求められるところに誰も置かない、という判断をするのかなとしばしば不思議に思います。
 最近、私の自宅の最寄り駅の東急スーパーが、レジに自動精算機を導入したのですね。ところが、商品のスキャン(スキャンして違うカゴに移す作業)は人間がやっている、つまりお客を信頼していない。で、清算だけ、機械にお金を入れさせる、つまり、今度はレジ係のお金の取り扱いを信頼していない、ということですかね。わかりませんけど、はじめて見たとき、気が狂いそうになって、「なんじゃこりゃ!もう来ないかもね!」とつぶやいてしまいました(笑)。アマゾンのレジ無し店舗、Amazon Goを知ってるのかね(知らない方は絶対にgoogles先生に聞いてくだされよ)、東急スーパーの上層部は。。。なぜ自動化するのか、どこを自動化するのか、何がコストなのか、どこでペイするのか、考えろよ!図書館も同じ。どこがコストとして許されて、どこで価値が生まれるのか、新しい機器、プログラムの導入にあたって、こういう計算を適切にしてほしい。図書館に専門職を非専門職を置くコストとそれによってもたらされる価値。もちろん、図書館の場合、儲かるということではなく、社会にもたらされるあらゆる価値を考えてみる必要がある。
 アバディーンの図書館については、これくらいで。

アウシュビッツ。。。

 なるべく感情的にならないで、もう少しだけアウシュビッツについて書いておこうと思います。
 こちら、アバディーンに来てから、2つの学校図書館と、公共図書館大学図書館を1館ずつを見学しました。明日、最後に1館、大学図書館を見学するつもりです。これらの見学については改めて、ブログに書くつもりでいますが、これまでに見た2館の学校図書館と1館の公共図書館で、歴史のコレクションの開架では、第二次世界大戦がどんなコレクションになっているのかを見てみました。ホロコースト第二次世界大戦の資料でかなり重きを置かていることがわかりました。原爆投下についての資料もすべての館にありました。特にホロコースト第二次世界大戦の他の問題よりも、学校図書館では重きを置かれていてるようでした。私は昨日まですっかり忘れていたのか、もしくはちゃんと勉強していなかったのか、なのですが、イギリスでは、The Kindertransportというプロジェクトが第二次世界大戦中にあって(参考資料として、イギリスのThe Holocaust Memorial Day Trust (HMDT)という団体による説明のページ(英語です))、約1万人のユダヤ人の子どもたちがドイツ、オーストリアチェコスロバキアから(親たちから引き離されはしたものの)英国に呼び寄せられて、命だけは助かったということがあったのでした。このプロジェクトの意義を、英国で出版されている子ども向けのホロコーストに関する本では必ず書いてるようです。当然ですかね。
 アウシュビッツを訪問し、その後、アバディーンの図書館でホロコーストに関する本を何冊か読んで思ったのは、「systematic murder」という言葉の重要性です。この「systematic」という言葉がすごく重要なのだと思います。日本語のホロコーストに関する本にはここをきちんと訳せてというか、書けてというか、いないものが少なくないのではないかと思ったりました(この私の理解が間違えていたら、ご教示ください)。ホロコースト(the holocaust)は(ユダヤ人の)大虐殺(mass murder)のこと、という説明が日本語ではすごく一般的だと思うのですね。でも、アウシュビッツに行って思ったのは、これが「systematic」な大量虐殺であったということが、誤解を恐れずに思い切って申しますが、私の考えでは、他の大量虐殺と違うのだ、ということなのです。「ユダヤ人問題の最終的解決」("Final Solution to the Jewish Question":"die Endlösung der Judenfrage")は、近代的な思考によって人間によって考え出された、他の特定のグループの人びとの大量虐殺のシステムなのです。。。これがシステマティックであったことが、近代的であると言え、近代の恐ろしい部分を象徴しているように思います。
 アウシュビッツでは、到着と同時に、人びとが、労働力として価値があるとみなし生かしておく人びとのグループと、そのままガス室で殺されるグループとに分けられますが、ここで生かされた人びとについては一人ひとりについて記録カードが作られていました(写真参照)。ただ、後には、カードを作らずに、人間に番号の入れ墨をして管理するようになったと聞きました。この記録カードが、近代の図書館の目録とあまりにも似ていることを指摘するのは、不適切でしょうか。。。この記録カード以外にも、あまりもきちんとした記録管理がされていたらしいことに、私は驚きました。あまりにも官僚的な仕事ぶりなのですよ、、、そして、戦争末期には、記録を処分することも忘れていませんでした。多くの記録が失われたということです。
 アメリカでは、ユダヤ人の研究者やライブラリアンにしばしば出会います。これらは彼らが悪いとは思っていない仕事なのだな、と思っていました。『刑務所図書館の人びと:ハーバードを出て司書になった男の日記』の原著者(主人公)も、ユダヤ人ですね。もっとも、落ちこぼれの(笑)。この本の中で、主人公がいかにアメリカのユダヤコミュニティで落ちこぼれていくかが書かれているのだけれど、アメリカのユダヤ人のここ二十年くらいかなー、の若者の実態が書かれているなあと思いました。ユダヤの価値観であるとか、ユダヤ人同士で結婚しなければという雰囲気であるとかに、ある程度の年齢になると葛藤する。親に反発し、ユダヤ人コミュニティに反発し、ユダヤ人であるということについて考える。とある、ユダヤ人男性に言われたことがあります。キミに興味がある。というのは、自分はユダヤ人というマイノリティで、キミは日本で1パーセントのカトリック信者というマイノリティだから、と。十数年前かなあ、けっこう本気で言ってるように思えたから、びっくりしました。信仰の問題でマイノリティだという共通点で近しく感じるとは、と。でも、私もここ何年かで、彼の発言の意味が少しずつわかってきたような気がしています。
 最後にもうひとつ。アウシュビッツは、アウシュビッツ=ビルケナウ博物館としてポーランド(国)が管理しているのだそうです。この博物館のHPには、簡単なものながら、日本語のページもあります。ここから、現地で購入できる2つの冊子のうちの1つが無料で、PDFでダウンロードできます。この中に「博物館か記憶の場か」というコラムというかがあります。アウシュビッツを博物館(museum)と呼んでよいのか、という議論があるというお話です。はじめて、アウシュビッツが博物館という名称だと聞いたときに違和感をもったのですが、このコラムをやっぱり議論があるのかと思いました。「博物館」とは何か、と考えさせられます。
 ではこのくらいで、アウシュビッツの話は終わりにしましょうか。

(2017.3.3追記)ところで、私たちはお会いできませんでしたが、現地で公認ガイドをしている中谷剛さんのこの記事いいです。また、私たちが旅行中に、NHKが放映したこの番組もすごくよかったと複数の人から情報をいただきました。再放送もあります。

ワルシャワでの図書館見学

 スコットランドアバディーンという街に調査に来ています。ここには昨晩(26日)深夜に着いたのですが、この前、ポーランドにちょっとお休み取る形で寄ってきました。司書課程で学んでいた学生が、ワルシャワ大学に交換留学で行っていて、彼女に会いに行ったのです。IFLAは今年、ポーランドで開催とのことで興味をもっている方もいらっしゃると思い、ちょっと紹介を書いてみます。
 今回、その留学中の彼女が、英語を話す司書の方と約束してくれていて、その方の案内で、ワルシャワ公共図書館の本館の充実した見学ができました。この本館のHPには英語版の規則も載っていますので、ぜひちらとご覧になってみてください。また、学生の彼女が今度、おそらく『図書館雑誌』に少し紹介を書いてくれるので、それも載りましたらご覧ください。彼女のブログはこちらワルシャワ、ヨーロッパの図書館のことがちらちら出てきます。
 さて、ワルシャワ公共図書館こんなところ(google mapへのリンク)にあります。この立地が重要なのだそうで。このあたりは日本の青山といったところらしく(笑)、まあ、集う人たちの年齢層は少し高いのだろうが、いちおうおしゃれな場所ということらしい。そこに、図書館がリノベされた、というので、おしゃれな感じの学生たちで図書館はいっぱいでした。でも、みんな、場所だけ使っているのじゃないんだよ。図書館の資料を複数広げている。本が、学生にとって高いような気がする。あと、Humanities中心のこの公共図書館が、その分野の勉強をしている学生にとって貴重な歴史的資料の宝庫なのかも。
 おもしろかったのが、2015年に新館として開館した部分と旧館を残した部分があるのだが、そのギャップの大きさ。ヨーロッパの格式ある図書館のリーディング・ルームそのものという感じの旧館部分の写真をあげておきますが(ちなみに利用者は写真に写っていないところにたくさんいました。この写真の部屋はかなり広いのです)、新館については留学中の彼女のおそらく掲載される『図書館雑誌』の記事をご覧ください。白基調で、大胆な吹き抜け、ガラス多用の明るい図書館になっていました。ポーランドの著名な建築家の事務所がコンペで勝って設計したそうです。
 案内してくださった司書の方いわく、とにかく、図書館が新しくなって、開架の本が多くなり、快適な空間になって、利用者が増え、図書館滞在者が増え、もうとにかく新しくなったのよ!と。日本の図書館がどうなっているか知らないけど、これはポーランドでは新しい動きなの、と若干興奮気味に、おっしゃっておられました。ヨーロッパの公共図書館変革の波がポーランドに!ということのようです。
 このあと、ポーランド国立図書館(英語のHPへのリンク)に連れて行ってもらいました。建築とシステムがNDLの永田町本館とすごく似ている感じがしました。びっくりした。図書館学研究のための部屋もありました(NDLには無くなってるけど、昔はあったよね)。世界の図書館をすべてそろえて、類型化した研究ってないのじゃないかな。まあ、お金かかるけれど、やれたら、博士号取れますな。誰かやってほしい。ワルシャワ大学図書館は、見に行く予定にしていたのだけれど、時間切れ。留学している彼女のブログを見てくだされ(これこれ)。

 さて、実は今回、私が担当している「図書館総合演習」に登録している/過去にして今も自主的に出てくれている学生たち数名とポーランドで合流し、アウシュビッツ訪問についていきました。いや、つらかった。この後は、もう混乱した話で、図書館も出てきませんので、、、読み進めないでいただいてもまったく構わないと思います。
 さいしょ、私はアウシュビッツは絶対に行かないと言っていたのだ。でも、周囲(学生含む)に説得され。。。『夜と霧』すら読むことを避け続けてきたわたくし。フランクルの著作は、他は何冊か読んでいるが、『夜と霧』はタイトルからしてつらすぎる。ただ、これの原語タイトルはまったく違うんだよね。原語のタイトルの日本語訳を付けている別のフランクルの翻訳の本があって、『それでも人生にイエスと言う』という講演集。変なことになっちゃってるんだよなあ。でもこのタイトルなら読める気がして、こっちは読んだ。『夜と霧』は読んでいないが。以前、D大学にいたころ、グルグル考え続けて苦しんでいるゼミ生がいると貸したりもしてた。今回、アウシュビッツに行って、『夜と霧』を読む準備ができたように感じている。近々、読みたいと思います。
 宗教に抵抗のある方も読んでいると思うので、ちょっと書きづらいが、カトリック信者の私としては、ポーランドは、あの世とつながっているという感じでした。天国なのかわからないが、神の存在を感じる。天国みたいなところでした、ってことじゃない。神の存在が、ポーランドではリアリティをもって感じられるということ。出会った人たちも、みなすごく素敵でした。shy、でも、人間が実は誰ももっている温かさの温度がちょっとだけ高い感じ。情報のあふれるザ先進国の人たちとは、見えているものが違う人たちだなと思いました。一度、住んでみたい。
 アウシュビッツを訪れてから、ふとした瞬間に、身体の底から、何かものすごく悲しい気もちの塊のようなものがこみあげてくる。ポーランドに魂が取り上げられるような、離人症のような感覚。アウシュビッツ見学そのものが、離人症的にならないと、無理です。その塊を抑えながら、アバディーンの空港に真夜中に降り立ち、タクシーに乗ったら、とっても素敵なshyな笑顔のお兄さんがドライバーで救われた。そしてタクシーに乗ってほっとしたところでラジオから聞こえてきたのが、hey jude。あー、イギリスだわなんて思いながらホテルに着いて、もう一度、スマホからhey judeを聴いてみたら、、、歌詞の中のher、なんじゃこりゃとわからないでいたherがGodと思うと、歌詞全体が納得行くような気がしてならなくなった(笑)。わたし、、、病んでますかね。改めて、jey jude、素敵だ。heal、peace。。。
 写真は、アウシュビッツの見学の最初に掲げられている、アメリカで学び活躍した哲学者の言葉。このサンタヤーナ氏の著作、読んだことないので、読んでみよう(もし探す方がいらしたら、ネットだと、英語の情報の方がよさそうです。本や論文はわからないが)。歴史を研究する者には励みになる言葉でもあるけれど。。。英語のcondemnedっていうのは、強い言葉だよね、、、つらい。。。

上海での調査

 上海に弾丸ツアーで調査に行ってきました。 The Western International School of Shanghai(WISS)というインターナショナル・スクールのヘッド・ライブラリアンの方へのインタビュー調査でした。彼女はスコットランドの出身で、post-graduateのライブラリアン資格(学部卒業後に取得できる資格です)を持って仕事をしていらっしゃるということで、彼女のキャリア・ディベロップメントについて聞いてきました。彼女はなんと今、同校の執行部メンバーでもあるのです。IB(インターナショナル・バカロレア)制度に基づいた学校で、どうやら世界的にも関心が寄せられているらしく、先日も日本に呼ばれたと仰っていました。
 学校図書館はガラスを多用していて、入口から入ってすぐが小さな子どもたち向けで、この写真の右奥の、後から増築したスペースが、今回お会いしたヘッド・ライブラリアンの方が担当する、中等教育向けになっていました。
見通しがよく、管理しやすいということでした。 
 彼女のキャリア・ディベロップメントについては、5月に発行する立教大学司書課程紀要SPLに報告を書きますので、ここでは、彼女が仕事の時間をどのように使っているかという話について、報告します。ちなみにスタッフは、入ってすぐの小学校までの子どもたちのための図書館のライブラリアンとヘッド・ライブラリアンである彼女に加えて、3名のフルタイムのアシスタントがいます。資料はなんと、(教科書を除くと)3万冊くらいしかないそうで、特に中等教育は、インターネットとデータベースがもっとも重要な情報源になっているとのこと。リサーチの課題も、まずはインターネットに向かう、ということです。いっぽうで伝統的な本のコレクションの多くは、入手にさまざまな困難があることも影響しているのだと理解しましたが、基本的に読書推進のためのもの、という位置づけだそうです(もちろん、それらの本がリサーチに使えないなんて言うつもりはありませんが)。生徒の国籍が多様なので、読書推進の資料も複数言語で、日本語の資料もありました。各言語を母語とする保護者たちや、教員たちが手伝ってくれて、コレクション形成をしているそうです。小学校までの子どもたちはクラスで定期的に図書館に来るけれど、中等教育はflexible schedulingつまり、必要に応じて図書館に来るということです。
 ヘッド・ライブラリアンの彼女の仕事は、レファレンス対応とティーム・ティーチングがひとつのカテゴリのような話しぶりで一番大きいそうで、そのほかに資料選定・発注およびコレクション形成、管理職としての業務(学校の管理職として、また図書館の管理職として)、そして近年力を入れているのが、教員向けのワークショップの企画・実施ということでした。教員たちに図書館の使い方、いかに使えるかを知ってもらうためのワークショップを年に3〜4回は実施しているそうで、それの効果もあって、ライブラリアンとのティーム・ティーチング以外でも頻繁に教員たちが学校図書館を使うようになっている、ということでした。資料の整理・受入業務、配架という業務は、話しぶりから、アシスタント・ライブラリアンたちの仕事と理解しました。
 おもしろかったのが、インフォメーション・リテラシー・インストラクション(情報リテラシー教育と訳した方がわかりやすい?)という言葉はそれほど意識していない、という彼女の発言。いろいろ言葉を変えて問いかけて確かめたのですが、いわゆるプロセス・モデルは小学校までに学んでいると思うので、中等教育レベルでは、状況に応じて教えている、ということでした。だから、上記のように、レファレンス対応とティーム・ティーチングがひとつのものとして彼女には見えているのだと思いました。私は、やっぱりそうかあという思いでいっぱいでした。私は、「学習指導と学校図書館」の授業ではプロセス・モデルをいかに教えるか、ということを学生たちと考える作業をもう十何年もしてきているのですが、ここ数年、WISSの彼女の考え方と同じようなことを考えるようになっていました。インフォメーション・リテラシー・インストラクションの近年の実践の動向を、遠くない将来、アメリカで調査したいと思っています。インフォメーション・リテラシー・インストラクションの実践を大量に見たのは、私はハワイ留学中ですから、つまり、正直に言って、20年近く前なのです。あとは主として文献、そして国際会議での実践報告からフォローしてきたので、なにか違和感を感じる今日このごろです。集中して、山ほど、実践が見たいなあと最近、すごく思います。サ、サバティカルぅぅぅぅ…
 
 さて、調査後は、上海で最近ちょっと有名らしい書店、衡山坊(Hengshanfang)の書店(こちらに紹介あり)と上海図書館公共図書館)に行ってきました。前者はアート系の書店。大きくは無いのですが、アート系の世界的なトレンド把握にはもってこいという感じでした。こういう書店はある意味、日本っぽいような、、、
 上海図書館は、基本的に住民向けということでありまして、入口のゲートで利用者カードを通す必要があり、中には入れません。けっこう多くの人の出入りがありました。まあ、都立中央図書館と同じようなイメージかな。ちなみに、上のリンク先の上海図書館のHPの一番上を見ていただきますと、中国語・英語・日本語・ロシア語・繁体中国語のページがあって、かつ、无障碍辅助工具条という操作ができるらしいことがわかります。无障碍辅助工具条って、なんらかの障害でうまくHPが見られない人は、ソフトウェアで見え方を変えられるようでした。

 そういえば、ヘッド・ライブラリアンの彼女は、上海のインターナショナル・スクールのライブラリアンたちとの研究交流グループを立ち上げた人物で、このグループで毎月、執筆家を呼んだ研究会等々を実施しているそうで。その話を聞いて、日本からも学校図書館関係者が毎月行って交流してっていうのもありかなーと一瞬夢想したのですが、学校を出て、上海の道路に立った瞬間に、空気がなあ〜となってしまった。汚染、けっこうすごかったと思います。

立教大学司書課程の科目等履修生制度

 先日、白百合女子大学で、司書課程・司書教諭課程の今井福司先生が実施してくださった、Joan Portell Rifà先生の公開講演会、大変内容が充実しておりまして、現在、youtube版、文字起こし版の作成中です。どうぞお楽しみに〜。Portell先生は、立教大学客員研究員として3ヶ月間、日本に滞在して日本の児童文学や読書推進活動に関する調査をされ、1月下旬、帰国されました。彼の調査を受け入れてくださった図書館や児童書出版社のみなさま、お忙しい中、ほんとうにありがとうございました。

 さて、今日はもうひとつ、まったく別の報告もしたいと思います。2018年度から、立教大学司書課程(図書館司書コースおよび学校図書館司書教諭コース)では、立教大学卒業生以外の方も、科目等履修生として受け入れることになりました。これは、立教大学司書課程の受講生に多様性をもたらすものと確信しています。ただし、学校図書館司書教諭コースは、教員免許状をすでにもっておられる方が対象になります。詳細は、資料をお取り寄せください(こちらに選考試験要綱等配布についての説明があります)。立教大学司書課程はすばらしい兼任講師の先生方にご出講いただいていますので、教育内容には満足していただくことができるだろうと思っています。
 多様性という意味では、これから、司書資格、司書教諭資格の付与課程のあり方も、大学によって、だいぶ多様性が出てくるのではないかなと思います。これまでも多様であったのかもしれませんが、なかなか見えなかっただけかもしれません。立教大学司書課程では、来年度は課程独自のウェブページの立ち上げをしたいと考えています。今、大学では、ディプロマ・ポリシーの制定が求められています(文科省によるガイドラインこちら)。司書課程もこれを明らかにしていくべきなのだろうと思っています。来年度はこれに取り組もうと思っています。

バルセロナからの客員研究員

 2012年度にバルセロナに調査に行きました。バルセロナ自治大学の教育学・文学系の学部バルセロナ大学の図書館情報学部が合同で提供している、学校図書館と読書推進の修士号プログラムについての調査、というのがメインの目的でした。国立青少年教育振興機構に資金を出していただいて実現し、『子どもの読書活動と人材育成に関する調査研究」【外国調査ワーキンググループ】報告書』の第5章に調査結果を報告しました(口頭での報告もしました)。(この旅のことは以前も書いてます(こちら)。)
 そのときに出会った方たちのご紹介で、この10月末から2017年1月末までの3ヶ月、客員研究員として、絵本作家、編集者、児童文学の評論家のJoan Portell Rifà(ジョアン・ポルテル・リフ)博士を、本学にお迎えしています。(ちなみに、Joanがお名前で、苗字にあたるのがPortell Rifàになります。Portellというのは父方の(父の)姓、Rifàが母方の(父の)姓だそうです。)
 この彼も含めて、けっこう大きなグループで、10月末に、いっしょに気仙沼に行きました。Ristexこのプロジェクトに参加したりしました。そして、先日は、板橋区の保育園で、読み聞かせをしました(板橋区からのプレスリリースはこちら)。そのほかさまざまごいっしょしていて、楽しいのですが、彼と私は英語ですべてをやりとりしているので、どうしてもコミュニケーションに限界がある感じなのです。そこで、彼の母語カタロニア語での講演会を、白百合女子大学の今井福司先生にご相談して、企画しました。すでに今井先生のブログでは告知しています。
 2017年1月23日(月) 18:00〜19:40@白百合女子大学です。演題は、「スペインの児童文学と児童に対する図書館サービス」で、彼の研究テーマを正面からお話いただきます。こちらのサイトからお申込みができます。白百合女子大学関係者以外は、事前のお申込みが必要ですので、お願いいたします。
 彼のブログはこちら国際子ども図書館いたばしボローニャ子ども絵本館の訪問記ももう掲載されています。といっても、カタロニア語ですが。カタロニア語は、google翻訳だと、日本語にすると大混乱ですが、英語にするとけっこうすっきり読めちゃうようになります。
 ちなみに、ジョアンの本は、日本の図書館にほとんど無かったのですが、今回、本学の図書館に、日本で購入可能な限り受け入れていますので、ご関心のある方はどうぞ本学図書館にいらしてください。amazon.comアメリカのアマゾン)で検索すると、さすがにけっこう出てきますけれど。
 あ、そうでした。大事なことを書き忘れるところでした。カタロニア語が、来年(2018)のボローニャ国際児童図書展の特集というのか"honor guest"に選ばれたそうです。国ではなくて言語が選ばれたのははじめてだそうですよ。来年以降、カタロニア語の児童文学への関心が世界的に高まるかもしれませんねーー

シンポジウム最終回+アメリカ大統領選挙

 前回のブログエントリで書きましたが、連続公開シンポジウムが来週11月20日(日)午後で最終回になります。大阪教育大学天王寺キャンパスにて。実践共有は、家城清美先生(同志社大学非常勤講師)、足立正治先生(元・甲南高等学校教諭;元・大阪樟蔭女子大学非常勤講師)、中村(立教大学)より。最後に、コメンテータとして、全5回に参加してくださった山本敬子さん(小林聖心女子学院司書教諭)に、お話いただきます。17時終了ですが、天王寺にて懇親会を予定しておりますので、参加していただける方は、ぜひ中村までご連絡ください♪

 さて、昨日のアメリカ大統領選挙...朝から学生たちと図書館総合展に行っていた私は、お昼ご飯時にネットニュースを見て、いやもうびっくりというか、呆然というか。オハイオ州が決まった時点で、「終った...」という連絡がスマホに来て、その後、フロリダがダメで、さすがの諦めの悪い私も、こりゃだめだと。夜は、ヤケになって、サイボクハムで高い豚肉買って帰って、常夜鍋とワインガブガブといたしましたとさ。
 昨晩からずっと、なぜ負けたのかを考えていました。住んでいる日本の政治の動向だって理解できない私が、アメリカの政治の謎解きができるわけもないのですがね。
 でも、今朝になって、Hillary氏の敗北宣言(concession speech)を見て、いや、ほんとこれがアメリカだわ、そうだとしか思えないし、思いたくない、と。日本語だとこれがいい記事だと思いますが、ぜひともスピーチの英語原文(例えばココ)を見ていただきたい。ただ、昨日「終った...」と連絡してきた御方にスピーチの話をしたら、「なぜこういった演説が最初からできなかったのか、、、」とな。確かにナア。Hillary氏ってスピーチするときいっつも余裕がなくて、感動したことなかった。でも、今回はわたしは泣いちゃったよ(笑)。まるで、キャンペーン中のスピーチ・ライターと違うライターを雇ったんじゃないかと思うほどイイ。以下の部分が一番いいかな。(ちなみに、このスピーチの前に、Hillary氏を紹介したのが、副大統領候補だった、Tim Kaineだったから、"as Tim said"。)

   I have, as Tim said, I have spent my entire life fighting for what I believe in.
   I’ve had successes and setbacks and sometimes painful ones. Many of you are at the beginning of your professional, public, and political careers — you will have successes and setbacks too.
   This loss hurts, but please never stop believing that fighting for what’s right is worth it.
   It is, it is worth it.
   And so we need — we need you to keep up these fights now and for the rest of your lives. And to all the women, and especially the young women, who put their faith in this campaign and in me: I want you to know that nothing has made me prouder than to be your champion.

 このスピーチの間ずっと、左にダンナさんのBill、右にTimがいるのよね。で、二人とも、特にBillがさ、ずっと泣きそうなの。これがねえ。。私は、案外いい夫婦じゃないのと、映像の最初からずっと、チラチラ見てしまった。本気で、応援してたんだな、って私は感じました。やっぱり、女性の社会進出は、パートナーがどれだけencouragingな人かにだいぶ依存しているのだと思うよ(生育期に見た親の後姿やかけられた言葉、職場の環境も大きいだろうが)。Hillary氏がダンナさんの閣議にいつも臨席していたとか、さまざまな要職を務めたことについて、批判はあると思う。私も近くにいたら、心底キライ、公私混同だ、と批判したのじゃないかと思う(笑)。でもねーーー、こうなって見ると、そういう状況でなければ、アメリカにおいてすら、女性が大統領の最後の2人の候補にまではなれなかったのかな、って気もします。
 Hillary氏が、いつも余裕がなく見えていたのも、常にfightしている気もちだったんだろうな、と今になって思う。今回の大統領選挙の最後、女性だからということでHillary氏が負けたということなのかどうか、それもわからないことではあるが、彼女の人生がfightし続けてきたものであったことはわかった(笑)。そして、ダンナさんのBillはそんな彼女を、誰よりも尊敬しているのだなということもこのビデオには明らかかなと。あっ、ビデオはyoutubeにいっぱい上がってるかと思いますが、私はこれを見ました。冒頭の40分くらいは会場風景だけで何も起きないのですが〜
 はあ、とにかくこのスピーチは歴史に残るわ。少なくとも私の記憶に残る。
 学生たちと話していると、親にこう言われた、おじいちゃんにこう言われた、というのをよく聞く。「無理って言われた」「今の時代は…って言われた」というようなものがほとんど。なんで若者をdiscourageするのかな、と思う。年をとっていけばとっていくほど、後輩たちをencourageするのが、男女関係なく年長者の責務になっていくのですよ。前向きなアドバイスならともかく、discouroageするなよ!!話がずれますが、ここ数ヶ月、アメリカの学校図書館研究者のおばあさまとメール交換をしていて、頼みごとをしている。彼女は常に、私をencourageするために、返事をくれるのですよ。あなたを応援するために、私にできることならなんでもする、と言ってくれる。師弟関係も何もない。ただ、1度会っただけの関係。いや、ほんとうに、これこそが、年長者が後輩に対してするべきことだと、私は改めて学びましたよ。年を取れば取るほど、自分のために活動しちゃだめです。他者のために活動すべし。(自らへの戒めとして記しておきます。)
 Hillary氏のこのスピーチの後半は、後輩の女性たちに向けてのもの。FacebookのSandberg氏のベストセラーLEAN INも、タイトルの意味するところは、前のめりになってという感じだよね。そうやって、アメリカの女性たちは、今ある女性の社会での活躍をリードしてきたのだと思う。そんな彼女たちが、fightとか、lean inとかって表現するような気もちでがんばってきたことに対して、賞賛と感謝の気もちをもつことができない人(特に女性)がいるだろうか。当然、Hillary氏のすべてを知っているわけではまったくないし、自分がすごく好きなタイプの人間に私の目に見えているかというと正直違う。でも、このスピーチはほんとうにすばらしいと思うよ。(スピーチ・ライターがいるにしても)彼女は、本気で言ってると思うなあ。
 数年のうちに研究休暇を取らせてもらってアメリカに行きたいと思っているわたくしですが、さて、どうなることやら。でも、繰り返すけど、このスピーチはすばらしい(笑)。
 あっ、そうでした。昨夜のトランプ氏の勝利宣言のスピーチの後ろにいる二人の顔見て!この二人の顔を見て、Hillary氏の後ろの二人の顔と比べるだけで、スピーチの重みが違うと思うわぁ。