ヴァーチャル・リアリティと図書館

 今朝,通勤時に,スマホを見ていたら,フェイスブックCEOのザッカーバーグがプエルトリコの件で謝ったという記事が流れてきていた。フェイスブックは,ヴァーチャル・リアリティ(VR)にずいぶん投資しているそうなんですよね。でも,こういう記事に出ているように,現時点ではVRの装置の売れ行きはよろしくない。まあ,それでかね,ザッカーバーグは必死なのかなって思います。もちろん,フェイスブックがすべてVR化されたら,おもしろいだろうけれど,そこにいきなり行くって状況じゃないのかね。で,フェイスブックはデモでプエルトリコのハリケーン・マリアの被害を体験できるものを作って公開し,VRは「共感」を広めるとザッカーバーグが言った。だけど,そのデモの最後にザッカーバーグと同社のレイチェルっていう役員のアバターが交わす会話が以下。

“Do you want to teleport somewhere else?” Zuckerberg’s VR avatar asked as he wrapped up his conversation about Puerto Rico. “Yeah maybe back to California?” another executive answered.

つまり…プエルトリコについての会話をまとめるにあたって,ザッカーバーグアバターが「どこか他のところにテレポートする?」と聞く。「そうね。カリフォルニアに戻りましょうか?」と役員が応える,と。ずいぶん気楽にプエルトリコの大変なところに行ってたもんですね,と誰でも感じるのでは?
 「これどうよ。倫理観ゼロ」とある人にこの記事のリンクを送って意見交換していたら,相手方から,「<カタルーニャ>独立宣言は保留 中央政府との対話を模索へ」という新聞記事へのリンクが送られてきた。で,私が言ったのが,「バルセロナ独立運動ににぎやかしでVRで参加したらおもしろいかもね」(注:ジョアンとは昨年,バルセロナから本学に来ていた彼であります。彼から,先月末に,300年のスペインによる支配を終わらせる云々というメールが来ていた)って,これぞまさに倫理観ゼロ発言。要するに,VRみたいな新しいコミュニケーション・テクノロジーが私たちに要求しているのは,ほんとうに倫理観であり,倫理教育なんだと思ったわけです。共感をVRが育てるか,よく研究したり,議論したりする必要がありそうです。

 先週の木曜日にハーッシュ先生が来日され,翌日には学内で講演会を開催,おとといの月曜日には学生たちと"Conversation with Dr. Hirsh"という自由な会話の場をもちました。来週の19日には,学内講演会とほぼ同内容を予定している公開講演会を開催(詳しくはこちら),20日には学内で学生たちと"Conversation with Dr. Hirsh"その2をいたします。で,先日の講演会の中で,VRの話も出てきたのですね。軍の訓練では導入されて久しい,とかね。これも倫理観に関わってきますよね。軍の訓練で,実際に戦場にいるかのような臨場感をもって,銃を撃つ練習をしているとかっていうことですので。でも,VRは,私は,避けられない,テクノロジー発展の方向かなと思ってます。この夏,IFLAの会議でも,VRと図書館の関係についての発表を聞きました。その内容については,11月24(金)夕刻に本学で公開でまたイベントをする際,少し私から報告しようと思っています。

サンドラ・ハーッシュ先生

 このたび、立教大学司書課程では、サンノゼ州立大学情報学研究科長のサンドラ・ハーッシュ(Sandra Hirsh)先生を本学の招聘研究員としてお招きすることができました。10月の三週間、日本に滞在されます。
 彼女は、『Information Services Today』という本を書いて、世界的にも著名になった方ですが、図書館勤務経験に加えて、10年ほどシリコンバレーで働いた、そのうえで図書館情報学教育の世界に入られた方で、アメリカの図書館情報学の研究者・教育者たちの間でもちょっと目立つ経歴の方だと思います。企業勤務経験者は日本の図書館情報学みたいに少なくは、アメリカはないですが。
 学内で学生向けに3度、イベントを開催しますが、学外でも、本学司書課程の前・特任教授の永田治樹先生が所長を務めておられる未来の図書館研究所で、10月19日(木曜日)の午後に公開講演会を開催する運びとなりました。今朝、私の手元にスライド案が届いたのですが、すごく魅力的です。日本でこういう話をできる図書館情報学者はいないのじゃないかなって思います。し、これがこれからの図書館の方向性だろうなと思います。公開講演会は事前申込み制なので、こちらから申し込んでくださいませ。ちなみにこの研究所の、こちらから読めます「動向レポート」はおもしろいです。
 サンドラは、今、お話を聞くべき、世界の図書館情報学者の筆頭の人物だと思ってます。正直、彼女の考えているようなことを聞くと、日本の学校司書だなんだの話って、ほんと近未来のメディア環境を無視しているのではという気がしてならないですわ。

IFLA@ヴロツワフその2

 今回、けっこう図書館を見ることができました。まあ、ヨーロッパですので、図書館の数が日本の比じゃない。このヴロツワフの中心部で言えば、大人なら歩いて行くことのできる距離に複数、公共図書館があります(どのくらい歩ける人かによるわけだが、徒歩15分圏内に3館はある)。今回私が見たのは、大学図書館が2館、公共図書館がオポーレ(Opole)という隣町で3館、このヴロツワフで3館、そしてヴロツワフ学校図書館3館、教員向けの図書館1館を見ました。結論から先に行ってしまうと、ポーランドの図書館はまさにこの数年で急激に変化、発展してきているのだろうというのが私の印象です。しかしそれは、基本的には建物の話と、活動内容の話ですね。コレクションの充実にはまだまだ資金投資が必要そうです。学校図書館に関わっていえば、公共図書館の児童サービスがけっこう充実している気がするので、まあ財政的に後者に集中投資されているのだろうなっていう印象でした。この急激な発展は、IFLAの開催地になったことと無関係というのはあり得ないのではと私は考えています。旧共産圏ということで私の見方にバイアスがかかっているかもしれませんが、この5年以内くらいで開館したという話が多すぎる気がしました。
 でも、驚くのは、どの図書館に行っても、"人"、つまり(教)職員は配置されている。ロシアに行ったときもそんな気がしましたが、いっぱんに人件費が安くて(=お給料が低くて)、でも仕事はしやすくて、特に女性が、そんなに不満もたずに、図書館や学校で働いているのだろうなという感じがしました。四つの学校で会った教職員は、管理職を含めて全員、女性でした。オポーレの図書館で出会って親しく話すことができた三人(女性二人、男性一人)にお給料のことを聞いたところ、一人暮らしはできないので家族か友だちと暮らす、とか、仕事をかけもって一日11時間12時間と働いている、とか、文化を仕事にしてお金が稼げるということはない、とか言っていました。ポーランドの男性はイギリスなりドイツなりにたくさん働きに出ているのですよね、もちろん、国外に働きに出るのが男性と決まってはいませんが。フィリピンと同じ感じなのかなと。優秀でも仕事がない、意欲的で事情が許す人は思い切って先進国に出てしまう。そうすると残ったメンバーでやる限界がある、という(ほんとにあるのかわからんが、残った人はやっぱりがっかりする)。もっとも、こういう話は日本国内の東京一極集中と同じような話かもしれないですね。ちなみに、ポーランド人は、私くらい、つまり40代半ばくらいかね、は、学校で英語を一切学んだことがないそうで、みなさん苦労して学校や図書館について説明してくださいました、多謝〜。電車の中で、60代と思われる男性にドイツ語はできるかと聞かれたことから推測すると、ドイツ語をみんな学んだのですかね。もしくはロシア語???でも、20代や30代前半くらいの子は、簡単な英会話はできます。けっこう流暢に話す子も少なくないです。
 
 大学図書館は、IFLA大会のオフサイトの会場になった二つを訪れました。一つはヴロツワフ大学の図書館だったのですが、この大学の図書館は複数の場所(建物)に分かれていて、私が行ったのは一番新しい建物(グーグルマップへのリンク)で、見た限りでは一冊も本がなくて、雑誌架はありましたが、大半がコンピュータの並ぶ部屋や会議室でした。もう一つは、ヴロツワフ工科大学の図書館で、こちらも私が見た範囲ではほとんどコンピュータの並ぶ部屋と会議室でした。両方とも、新しくてきれいでしたけれどね。ちゃんとしたツアーをしてもらったら、もっと違うエリアもあって見ることができたのかもしれませんが。
 ご存知の方も多いと思いますが、IFLAの大会はたいてい最終日翌日が図書館見学会になっていて、複数のツアーが同日に行われるのです。一つしか選べないので、学校図書館しか私はたしか選んだことがないです。それで、別の図書館は自力で行くことになります。今年、ツアーの中に、ヴロツワフの隣町(特急で1時間)が選択肢に入っていました。香港人の会議に飽きた友人が、最終日の閉会式じゃなくて、その街に行ってみようよ、というので、お供することにしました。このオポーレという街には、大学も複数あって、ヴロツワフほどではもちろんないですが、けっこう大きな街でした。この街に行こうとすると、ヴロツワフ中央駅から特急(IC)に乗るのですが、そうするとその駅にできたばかりの公共図書館にも寄れていいじゃないといって出かけました。これが大当たり。図書館で話しかけた人たちがほんとうに素敵な人たちで、正直にいろいろ聞かせてもくれて、いい出会いでした〜感激〜。ツアーで行ってこそしてもらえる説明もいっぱいあるのですが、個人的に話しかけてこそ聞ける話もいっぱいあるのですね〜。もちろん、ワルシャワとはここは違うと思います。ヴロツワフとオポーレもたぶん違う。オポーレくらいの大きさの街だと、外国人が来て、話聞かせてって言ったら、できるかぎり付き合ってくれるって感じなのかなと思います。とにもかくにも、素敵な人たちでした。
 訪れたのは、オポーレ県立図書館オポーレ市立公共図書館です。日本の市立図書館と県立図書館の関係と同じのように聞こえました。県立図書館は県内に4館あるということでした。市立図書館は18館。オポーレ中心部にある県立図書館は歴史的な建物で、狭くなってきたので、新しい建物を県に要求していると言っていました。私が話したのは、ポーランド史と英文学を学んだ二人で、共に女性。少なくとも英文学の方は博士号をもっていると言っていました、30歳前後かな。冗談みたいに言ったので確信がないのですが、ポーランド史の方も博士号もちみたいでしたが、少しだけ若い感じでした。大学時代から知り合いだったと言っていましたが、英文学の彼女が先に図書館に就職したと。二人とも、図書館情報学の学位はないと言っていました。ただ、私たちはbibliographyが分かっているので、と言っていました。どういう資料があるかと調査法はわかっているから、利用者の高度なレファレンスも対応できるし、展示会等の企画もいいものができる、というようなことだったと思います。ポーランド史の方は、今、歴史的なポスターを集めた企画展示の準備をしていると言っていました。展示をしたら、それはそのまま捨てることはしなくて、県内の図書館に貸し出していると言っていました。私が見せてもらった範囲からの理解では、この図書館は4階建てで、隣にあと二つ別の建物がありました。メインの建物1階はパソコンとCD、DVD等のマルチメディア、2階から3階は閲覧室と開架、4階は閉架でした。もう一つの建物は、1階は展示室で、一般市民に無料で展示の機会を与えているとのことでした。2階より上は県の事務のオフィスがあると。それで地下は小さな講習室と宿泊用の部屋(お風呂とおトイレ付)でした。宿泊用のお部屋は、外に直接つながる場所にあって、講演会があったりすると、市の中心部だし、喜んで講演者が泊まると言っていましたが、なにしろ歴史的建造物なので、気味が悪い感じが…(笑)。そして、もう一つ別の建物に、印刷の部署があって、図書館のチラシやポスターはここで印刷してもらうと言っていました。どのチラシもポスターもセンスがいいと思ったら、デザインの専門家がいるということでした。
 オポーレ市立図書館は、中央館と分館2館を訪ねました。この3館を歩いて訪ねたので、ヴロツワフ市内と同様、歩ける範囲に3館は図書館があるということですね。しかも県立図書館も含めれば、4館ですね。市立図書館本館は5年前にできたそうで、この中央館の建築はすばらしかったです。私が過去に訪れた図書館で建築が忘れられないのが、マルメの図書館ですが(そのときのエントリはこちら)、それと同じくらい記憶に残りそうです。ヴァーチャルツアーがこちらにあがっていたので、ぜひ見てみてください。職員は利用者がいないときもカウンターで仕事をしていて、これはスペインの新しい図書館のトレンドと同じだなと思いました(バルセロナでの調査報告はこちらから)。
1階にはセンスのいいカフェがあって、香港人の彼女がその香りに、Just I cannot resist!ということで、飲みましたら、これは今回の旅の中でいちばん美味しい珈琲でした。お菓子も美味しかった!美味しいって重要だよね。1階はあと講習室と展示室でした。図書館に、カフェや文化的なイベントに来て、上の図書館ゾーンには行かないで帰る人もいていいっていう考え方でしょうかね。入口には返却のための機械(無人)もありました。この図書館でいいなと思ったのが、数少ない閲覧席が川と緑が見えて書架のちょっと奥まったところで、すごく快適なのですね(この図書館のインスタの写真をぜひ見てみてください)。あと、児童室(写真参照)、マルチメディアの部屋(続けて写真参照)もすごく雰囲気がよかったです。いや、雰囲気はどこもすごくいいのですよね。パソコンがたくさんあるのはスペシャルコレクションの部屋なのが面白かったですが、カウンターで古いカトリックのカードの目録作業をしていた職員の方を見ていたら、コンピュータの利用登録作業と並行して目録作業をしているようでした。すごく合理的だなと思いました。その職員の方はおそらく20台の男性で、聞いてみたところ、図書館情報学を学んだことはなくて、学位は音楽で、以前はミュージシャンだったと言っていました。以前は図書館学を修めていないと市立図書館では働けなかったが、数年前に変わったとも言っていました。整理中のカードをいろいろ見せてくれたのですが、これは同館を退職した人が長年集めていたものを寄贈してくれたのだが、数百前のも含まれているよ、と言っていました。けっこう気軽な感じで管理していて、さすがヨーロッパは百年、二百年くらいじゃ、それほど古いうちに入らないのだなあと。興味深かったのが、この彼が、「カトリックは歴史だ」と言ったこと。あともうひとつ、この図書館で興味深かったのが、マルチメディアの部屋に漫画のようなものもけっこう置かれていて、そのうちの1冊を手に取ったら、かなりどぎつい性行為の描写があったのですね。香港の彼女と、どうなの?という話になって、一人の職員の方(この方も20代に見えた)が近くに来たので、「これっていいの?受入前にチェックしてる?」と聞いたら、笑って、「うん、問題ない」って簡単に答えられてしまった。We are from Asia.とか言って、私たちの国だと利用者が何か言ってくるかもしれないねーって香港の彼女と話しました。かなりリベラルそうです(北欧やドイツと同じ感じですかね)。このカトリックは歴史、というのと、リベラルな選書と、で、私はポーランドの今の変化の大きさ、急激さ、ジェネレーションによる考え方の違いを強く感じました。共産主義の時代にも、カトリックを維持できたポーランドが(ヨハネパウロII世が選ばれたのはポーランドカトリックを守るためだったという説もあるが…)、今度こそ、カトリックを捨てることになるのか?!この話題、香港人の彼女は、「近代化した社会はそうなる」の一言で済ませてましたが。
 さて、この後、この場所の図書館にグーグルマップを手がかりに行きました。そうしましたら、グーグルマップの写真となにか違うのですね。あとで聞きましたら、以前は、この場所におもちゃの専門図書館があったそうなのですが、おもちゃは5年前にできた中央館の児童室に統合されたそうです。それでこの分館は基本的に本、そしてイベントを担当する、児童、ヤングアダルトサービスの市立図書館分館になっていました。しているようでした。声をかけた職員さんが、20代後半かなという男性でしたが、彼はなんと、“creative pedagogy”(「創造性の教授学」と訳せる?)を専攻したそうで(図書館情報学ではなくて)、子ども向けのイベント、ワークショップ等の企画はお手のもの、みたいでした。この夏にやっているイベントは政府(国のようでした)からお金が出ていて大きなものだそうで、船の上で読書するというようなアイディアで、この地域の子どもたちについては彼が子どもたちを連れだしているのですって。そのときのビデオを見せてくれました。川に大きなボートを出して、子どもたちはその上で本を読んでいました。この分館はちょっとした坂の上にあるのですが、行くときに、私たちが上っていたら、図書館の側から数十人の子どもたちが歩いてきました。幼稚園かなあ。で、彼と話していてわかったのが、私たちが来る直前まで、その子どもたちがクラスで図書館を訪れていたそうなのです。この話を聞いていたので、翌日、ヴロツワフ市内の学校図書館のツアーが終わった時点で、公共図書館の数が多いし、子どもたちを公共図書館に連れていくというベクトルで過去は考えられていて、あまり学校の図書館は発展してこなかったのね、と私は思いました。上の写真はこの図書館のお部屋の一つ。そしてマンガのコレクションです(ディズニーもあり)。
 この後、親切な彼が、もう一つの分館に案内してくれました。グーグルマップのこちらです。旅行に関する資料を充実させた図書館とのことで、それ以外は一般的な読み物や児童サービス、イベントなどもやっているということでした。団地の2階にありました。そうやって話を聞いているうちに、ポーランドでは、公共図書館は主題ごとに分担収集のようなことをしているのだなということがわかってきました。これは実は、翌日、学校図書館のツアーで、高校の図書館3館を見せてもらって、高校も似たような構造になっていることを知りました。ひとつの学校は医療・心理コース、もうひとつの学校は演劇のコースが強いと言っていました。どの学校にも複数のコースがあるそうなのですが、伝統的にこのコースに力を入れている、というのが各学校にあるようでした。まあ、共産圏の教育のやり方ですかね、専門性を分担するという考え方は。ちなみに、この旅行の資料が充実する分館にも案内してくださったcreative pedagogyを学んだ彼は、教会に行っているけれど、みんなは洗礼は受けていても教会には行っていないよね、と言っていました。ふむ。
 これでオポーレからヴロツワフに戻って、この日のうちに、駅舎2階にこの5月かな?にオープンした図書館に駆け込みました。歴史的な建物に公共図書館が新しくできて、とってもいい雰囲気でした。資料も新しいものばかりでした。駅舎2階は以前は政府や企業のオフィスが入ったりしていたみたいです。それを図書館に変えたということですが、利用者がどのくらいなのかは、今、開館したばかりで夏休みになったので、また9月以降にならないとわからないなあと言っていました。あっ、ちなみに、オポーレに大学が二つあったので、訪れてみましたが、両方とも図書館は閉まっていました。なんと、ポーランドでは8月は丸々、大学図書館は閉館するそうでーす。なんとも…

 さて、翌日はIFLAによる企画ツアーで、教員向け図書館1館と学校図書館3館を見ました(ここに出ているうちの、半日のツアーの3番です)。が、みなさん、40代から50代の方たちが対応してくださったので、英語がよく通じないということがあって、確信をもって理解できたことが少なくて、ここに書けることがあまりない気がします。ただ、教員向け図書館は、教材や教育方法の研究のための図書館ですが、けっこう充実している感じがして、いいなと思いました。学校からインターネットで資料を検索して取り寄せもできる。あと3館は、すべて高校の図書館だったので、小・中の図書館は未発達かなと思いました。これらの高校の資料は古いものが多くて、新しいものはほんとうに少なかったです。ただ、どこも、文化的なイベントはいろいろ企画しているみたいでした。必ずしも読書に関わるものじゃなくても、生徒たちが図書館に集まってくるような楽しいイベントを企画・実施しているのだなと思いました。あと少しみんなが話題にしていたのが、図書にラベルが貼られていないこと。探しづらいよね、とみんなが言っていましたが、要するに、資料の数が2万冊とかいうところで、ある程度、分類はされているので書架を見ていけば探せるし、そもそも古い本がほとんどなので、新しいものを手に取ろうとするならすぐに見つけられるし、だいたい本があまり動いていないから問題ないのではないか、というのが私の推測です。といったところで、学校図書館は、今回見た3館は選ばれし学校だと思いますが、まあ、それでこれだと残りについては推して知るべしというところです。これからの発展が期待されている、というところですね。
 このツアー終了後、市の中心部にある二つの公共図書館をものすごい駆け足でですが、訪問しました。一つは広場に面した図書館(グーグルマップのここ)。もう一つはMediatekaという図書館です。広場に面した図書館は、このHPの説明から理解するに、おそらく県立図書館だと思います、ドルヌィ・シロンスク県の。とにかく、ええっこの立地!?という、立地に驚きですね。超一等地じゃないですか。中身は、写真でも見えるかもしれませんが、アメリカとフランスの国旗が入口に飾られているように、外国についての資料を中心とした図書館になっていました。アメリカ、フランスの他にも、ドイツ、韓国等が支援してできたようです。児童室も、他の文化を知るというテーマになっていました。オポーレ市立図書館でもそうでしたが、児童室には必ず、子ども用の机の上にはクレヨンや紙があるのです。そしてゲーム(ボードゲームだけでなく、ソフトも)やおもちゃのコレクションがある。左の写真を見てください。古い施設でもこんな雰囲気です。いいですよね〜。私が見学した公共図書館はどこも、幼児がたくさん来てただ遊んでいました(本を読んでいるわけではない)。でも、思ったよりこの図書館、使われていない感じがしましたね…この図書館を見た翌日に会ったIFLA大会参加者の一人も、そういう印象を受けたというふうに話していました。要するに、日本にあるアメリカンセンター、アテネフランセゲーテインスティテュートが一つの建物に集まった感じなのですが、日常的に利用するところじゃないっていうことですかねえ。
 Mediatekaの方は、名前のとおり、CDやDVDを中心とした図書館で、でもここも建築がなかなかよかったですね(ぜひこの図書館のインスタグラムを見てください)。狭くても、イベントスペースも設けてあって。とにかく、今回、ヴロツワフとオポーレで図書館を見て思ったのは、少なくとも近年建てられたりリノベされたものについては、図書館建築とインテリアがものすごくセンスがある、ということ。それはオポーレに一緒に行った香港の彼女も言っていました。インテリア、デコレーションがすばらしいと。文化的なイベントをどんどんやっているところといい、図書館建築といい、ドイツ的なのですかね。ヴロツワフもオポーレも、ドレスデンまでドライブで3〜4時間というところですし、いろいろ情報が入って来るでしょうね。

 このあとは番外編のような話ですが、図書館見学ツアーの翌日にはいつも帰国しているのですが、今回、ポーランド航空が飛ばない曜日だったために、ぽっかり空いてしまいまして、IFLA大会のポストコンフェレンスの観光ツアーに乗りました。はじめてこういうツアーに乗ったのですが、すごくよかったです。まず、IFLA大会参加者と改めて出会えるということ、それから、やっぱりその地域を知るということは重要だなと実感しました。今回乗ったのは、地元つまりドルヌィ・シロンスク(Lower Silesianを意味するポーランドの呼び方)を巡るというツアーで、ポーランドで3番目に大きいというクションシュ城(Książ Castle)と、世界遺産の木造建築のプロテスタントの教会、シフィドニツァの平和教会(Peace Church in Świdnica)を訪れるというものだったのですが、この二つとも、もっとPRして人呼べるよ!と言いたくなるような、興味深いものでした。お城の方はですね、おもしろいことに、個人所有だったもので、つまりオーナーが王様ではなかった。豪族ですな。で、このお城の戦前最後の所有者だった家族の歴史が激動で、スキャンダラスで面白くて、かつ、戦中にこのお城がナチスに占領されたと。で、ナチスドイツが地下にものすごく長い、えっと、500mだったかな、のトンネルを掘っちゃってまして、ここに金塊を隠していたらしいという噂で数年前に騒ぎになったりしている(ガイドさん曰く、これは仕組まれた騒ぎ、つまり観光のためのプロモーションだったのではとも言われているらしい)。このお城は行ってみる価値がありました。
 このお城の中で私たちを案内してくれたガイドさんがこれまた20代と思われる若者で、彼が、お城の4階5階が整理ができていないからと公開されていないのに対して、ガイドたちはダークツアリズムとして公開すべきと主張している、と言ったので、私はとうとう、やっぱりなあ、と思いました。今年に入って2回、ポーランドを訪問した範囲の理解でですが、この国で、特に若者は、もう開き直って自分たちの歴史をダークツアリズムでアピールしちゃおう、と思っている気がします。もちろん、ふざけた態度ってわけじゃなくて、なんていうか、やっぱり、第二次世界大戦(から冷戦時代)がいまだ生々しい国ですから、今の20代がはじめて、共産主義の終わったポーランドに生まれて、国全体として少しずつ20世紀の悲しみから脱却しようとしているのじゃないでしょうか。日本人は高度経済成長を通じて、戦争のこと、敗戦のことを、忘れよう忘れようとしてきた。例えば、私の両親は戦争をしっかり覚えている世代ですが、子どもたちにそれを語るということは、聞かれない限り、自ら積極的には、少なくとも日常的にはしないという態度でした。それでも、子ども3人とも、話は聞いてきたし、彼らが戦争で受けた傷はある程度、認識していると思います。ただ、表向きには、日本は、みんなで、基本的には過去を忘れて、未来を、”発展”を追い求めてきたわけですよね。子どもたち、孫たちに戦争のない、豊かで(貧乏ではなくて)幸せな社会を残したいと祈ってきた。いっぽうで、ポーランドは戦後はロシアの圧力の下に置かれ、経済発展という形で一気に方向転換とはいかなかった。ツアーのガイドさんにバスの中で、ポーランド人はドイツとロシアのどちらに好ましい感情をもっているか、という趣旨の質問をした人がいたのですね。それに対するガイドさん(30代かな、男性でした)の答えは、もちろん、Red Armyがポーランドナチスドイツから解放してくれたということはあるが、ロシアは共産主義を押しつけてきたわけなので、結局のところ「それぞれの家族の経験による」というものでした。おじいちゃん、おばあちゃんが戦時中から終戦の時、戦後にどういう経験をしてきたか、が家族の中で語られるので、それによると思う、ということでした。このツアーは、チェコの国境近くまで行くものでしたが、ヴロツワフからわずか1時間のドライブでした。ポーランドがいかに隣国に囲まれているか(まあヨーロッパはどこもそうなのですかね)。このドルヌィ・シロンスクという地域、私はワルシャワより好きになりました。たぶん、政府(国)から一定の距離があるからですね(地理的かつ心理的に)。地方都市の魅力を感じられ、きっとまた訪れたいと思うようなところでしたぁ。

(2017.8.29追記)私が話すことができた、オポールの図書館で働いている人たちが全員、図書館情報学を学んだことがないという人たちだったことについて、これを書くつもりだったのを忘れていました。私は、それはいいことじゃないかなーって思いました。図書館情報学を専攻した人も働いているみたいだし、一部の職員は学んだことがなくてもいいのじゃないかなと。これは、図書館情報学の教育の欠落を認めることにもなるのかもしれないけれど、高度な主題専門性とか、音楽とかデザインとかの能力、今の図書館ですごく重要だと思うのですね。特に音楽やデザインは、今の日本の公共図書館の職員にも必要だと思う、絶対に。最近、司書課程ができることって、あるなあと強く感じています。

IFLA@ヴロツワフ

 ポーランドヴロツワフに、2017年世界図書館情報会議で来ています。今年のはじめにポーランドに行くことにした時点で、この夏には来ない前提でいたのですが、実は、久しぶりに来年度、司書課程の中で新しい科目を担当することになりそうなので、それに関わって世界的な動向を勉強をしたいと思ったのと、打ち合わせの話が2件あって、考えを変えて、やってきました。すでに全プログラムは終わっていて、いろいろな状況を経験して、考えさせられていますが、今年は、ブログでそれをすぐに発信するというだけでなくて、秋に、他に2人の方を誘って、立教で、夏の国際会議の参加報告会を開催しようと思ってます。私以外には、米国アーキビスト協会(Society of American Archivists: SAA)に参加した方と、あと台湾図書館研修に参加される方に報告者になっていただこうと交渉しています。私のIFLAでのセッション参加報告はその機会にいたします。また告知を出しますので、お楽しみに〜
 それで、今年のIFLA会議でございますが、初日に"成就"的だったので、2日目以降どうなるかと思いましたら、今年はめちゃくちゃ楽しみました。学校図書館の分科会に、昨年のオハイオ大会もですが、一切行ってないので、それが理由かもしれません。単純に、自分にとって新しいことが多そうなセッションに、去年と今年は出ています。
 初日にすでに"成就"と思えたというのは、久しぶりに出た開会式の、特にパフォーマンスのクオリティが高かったということと、午後に、今回来た目的の一つであった、Libraries in Times of Crisis: Historical Perspectives - Library History Special Interest Groupのセッションが期待どおりの興味深い内容であったということでした。開会式のパフォーマンスは、地元のパフォーマンスグループによるものだったのだが、この街の2000年の歴史を七つに分けて、歌、音楽、ダンス、それに写真や画像のプロジェクションを背景に折々出して、というもので、とても現代的な、すごくクオリティの高いものでした。そこに、翌日、刑務所図書館見学会に参加して、最後に受刑者のグループのパフォーマンスを見せてもらいました。このレベルたるや、ちょっとそう見られないレベルで、やっぱり、パフォーマンス・アートの伝統がヨーロッパは違うなあと思いました。今日のところは、この刑務所図書館の話を書きますね。それで明日以降、今回、だいぶ図書館を見たので、ポーランドの図書館見学記を書きます。で、会議でのセッションについては、前述のように、秋に報告会をする場で。

 さて、今回訪れた刑務所図書館は、ヴロツワフ第1刑務所(Zakładu Karnego Nr 1 we Wrocławiu)というところの図書館です。20名のグループで行きました。特別なニーズのある人々に対する図書館サービス分科会(Library Services to People with Special Needs Section)の企画でした。前回のポーランド訪問で、アウシュビッツであまりにショックを受けたこともあり(これこれに書いた、恥ずかしい内容だが)、ダークツアリズムというかは自分には向かないことが嫌というほどわかった気がしていたので躊躇して一度申し込みをやめたのですが、刑務所"図書館"は日本では普及していない状況が何年も気になっていたので、国内の実態もわかってはいないのだが、この機会を逃さずにポーランドの実践を見てみるべきだと判断しました。それで、刑務所に着いて(写真は入口の様子。同じ場所は内側から見ると有刺鉄線ずっと巻きついている)、セキュリティチェックを受けて塀の中に入ったとたん、猛烈に後悔しました。英語で言うところのI'm so nervous.な状態ですね。で、警察犬みたいな犬がいて、たくさんの刑務官の人たちがいてくれる、という状態で、一つ一つ鍵を開けてもらって中に入っていたのですが、どんどん辛くなってくる。で、最初に会議室に通されて、管理職の人たちにウェルカムのスピーチをしてもらったり、刑務所についての説明の3本のビデオ(ポーランドの刑務所制度についてのビデオ;訪問したヴロツワフ第1刑務所についてのビデオ;リクルーティング用か?というような刑務官の私生活と仕事について明るく説明したビデオ)を見せてもらったりして、質疑応答があって、という間にもう、は〜〜っていうような状態になっていて。。その後、刑務所内部のいろいろな部屋を見せてもらった。クリニック、歯医者さん、卓球台等のある娯楽室、外の家族等との面会室、8人収容の一般的な部屋(ヌードの女性のポスターらしきものが貼られていたのにシャツをおそらく急いでかけててきとーに隠していたのがウケた)、そして図書館といったところ。ちなみに私がいつも問題にしているおタバコですが、スモーカーとノンスモーカーは別別の部屋に収容される。スモーカーは自分の部屋でのみ喫煙可能ということでした。
 図書館は、ライブラリアン1名、そして受刑者たちが働いているというような話でした。冊子体の目録があるので、それを見てリクエストするという形で、受刑者が直接、図書館に来るという形にはなっていないということでした。すべての本に、茶色い紙でカバーがされていて、何の本かまったくわからないのがなんだかなと言う感じでした。横にいたハンガリーからの参加者にどう思った?と話しかけたところ、カバーをするのはいいアイディアだというので、なんでと聞いたら、ハンガリーで刑務所図書館に行ったときに聞いたのが、一番人気は聖書だと。なぜかというとその図書館の聖書がいい紙でできているので、タバコを作るのにいいのだそうで、ということだったから、まあそういうようなところだから、本を大切にするという考えがあるかどうかわからないし、汚れなくていいと思うよ、と。うーん。ちなみに、この図書館での一番人気は、ハリーポッターだそうです。なぜだろう......。イタリアの刑務所図書館で活動している参加者は、閉架という仕組みをとても残念がっていました。イタリアではそうではないらしい(以前も書いたけど、「塀の中のジュリアス・シーザー」という映画の舞台はイタリアの刑務所で、図書館も出てくる。youtubeに予告編あり)。まあ、図書館については、あるってことだけで、人権意識はやっぱりヨーロッパは高いよねということで、尊敬しかないわけですが、ヨーロッパの他国と比べてどうかというともう少し変えられる部分はあるのかなという感じがしました。でも、同じようなことを繰り返しますけれど、日本の人権意識ってやっぱり低いよねっていうことが、図書館が刑務所にちゃんと無いっていうだけでも、改めて実感されますね。ちなみに、イタリアもポーランドも、刑務所には図書館を置くと法律で決まっているそうです。イタリアのライブラリアンからは、学びなおしに読書は不可欠、と言われてしまいました。まったくでございます。彼女は、大学の教員ですが、刑務所に、読書の指導に定期的に出かけているということでした。それで刑務所を出るとなったらなんと、刑務所の航空写真の入ったマグカップを刑務所名の入った手提げ袋に入れて一人一人にくださいまして、何とも言えないお土産です。あまりにもレアで嬉しいというのが正直なところか。
 そこででは次はシアターに移動します、となりまして、私はてっきり刑務所内で見せてもらうのだと思っていたのですが、なんと素敵なミニシアターで、間近に、受刑者と元受刑者のパフォーマンスを見せてくださいました。いやもうこのクオリティがめちゃくちゃ高くて、びっくり。その予告編がyoutubeにありましたので、見てみてください。クオリティはすぐにわかっていただけると思います。で、これの最後に、4人のパフォーマーが手をこちらに力強く伸ばしてくるのですね。パフォーマンスが終わりなのかもわからないし、観ていた私たちは、その手を取りたいと思いながら、ためらっていた。そうしたら、そのイタリアのライブラリアンがいつものごとくゆーっくり立ち上がり、手を取った。その手をパフォーマーの方が自分の心臓あたりに当てたか当てないかというところで、なんと、二列目からアメリカ人の女性が飛び出してきてもう一人の人の手を取った。そしてアメリカ人の方もう一人。そしてドイツ人かな。なんというか、そうだよなーって。すごくお国柄が出ていたなーっていう4人だった気がしました(その場には11か国からの参加者がいた)。ステレオタイプ化みたいなことなので、これ以上は書きませんが。"世界"が見えた感じがしました。私は三段目にいて、とても降りれなかったですけれど、手を取りたかったなと思っていたら、終わって帰ろうとしたら、入り口のところにパフォーマーのうちの二人の方が立っていてくれました。thank you......ぐす、と手を取ったら、ほんとうに力強く返してくれて、笑顔が素敵でした。パフォーマンス後に一人のパフォーマーの方が、このワークショップ(英語の説明)をとおして自分は人間になったと思っているっていう発言を中心とする、スピーチをしてくれたんです。これがほんとうに感動的でした。他者が"矯正"という言い方をするのが適切かわかりませんが、彼が自分が変わったと思えていることがとても重要だと思いました。このパフォーマンスを見られただけで、ポーランドにまた来ることができてよかった、と思えました。人が変わるプロセスを身近に感じられて、シェアしてもらえて、最高の経験をしたと思いました。日本の"矯正"ももっと変われるのじゃないかと思います。人間の可能性を信じる、良心を信じるっていうところが重要なんだよね。そうそう。さっきのyoubuteにあがっている予告編の説明に書いてあるけれど、このパフォーマンスは賞をもらっているのですね(Winner of the 4th National Competition of Prison Theatre Art in Poznań (2017)、Grand Prix of the 26th National and 14th International Review of Prison Art in Sztum (2017))。さもあらんというクオリティ。youtubeにはもう一つ、このパフォーマンスのメイキングのドキュメンタリがあがってます(ここ)。図書館は映っていませんが、刑務所の中は各所映っています。私たちのグループは刑務所内の撮影は許されていなかったので写真もないですが、このyoutubeを見れば、けっこう雰囲気はわかります。まあ、映像よりもっと暗い雰囲気だったとは思うけれど。
 最後になりましたが、とにかく、こんな大変な訪問をアレンジしてくださったポーランドの方たちには、感謝に耐えません。ほんとうにありがとうございました。

 ほら、私、観に行ってるよ〜(ここのどこかに、い、いる...)

(2017.8.29追記)茶色い紙のカバーが刑務所図書館のすべての本に付けられていたことについて、このブログを書いた後で、アメリカからの参加者と話す機会があった。彼女は、プライバシー、つまりいっしょに暮らす受刑者間で何を読んでいるかがすぐにわからないように、という配慮の可能性もあるのではと言っていた。

映画「ブレンダンとケルズの秘密」

 「図書館概論」や「図書・図書館史」で,中世の図書の世界を示したい,写本,写字生を具体的に見せたいというとき,「薔薇の名前」の映画を見せている先生はけっこういるのではないかと思う。20年ほど前になるが,私が学部生だったときにも何かの授業で一部を見せてもらったと記憶している。作製されたのは2009年なのであるが,日本でもこの夏,公開されることになった「ブレンダンとケルズの秘密」というアニメを公開早々に観て,これは,写本の世界だけでなく,中世キリスト教社会において,書くこと,描くこと,書かれた聖書,読むことがいかなる力をもつものと考えられていたかを感じることのできるいい教材になるのではないかと思った。
 最近,テレビでよく,日本に来た外国人に,なぜ日本に来たかを聞くシーンを見かけるが,「日本のアニメが好きで」という答えは少なくないようだ。先日,たまたまテレビをつけたら「"千と千尋の神隠し"が好きで」と答えている女性がいた。バルセロナから昨年,本学にいらしていたJoanも,日本をジブリ映画を通して身近に感じる人が今のヨーロッパ(の特に子ども)にはたくさんいるのではとおっしゃっていた。ちなみに私はジブリ映画はどうも好きになれず,ご推察のとおり,ピクサーが好きです。なんて話しながら,ジブリの中でまあまあ好きなのは,「ハウルの動く城(Howl's Moving Castle)」かなーなんて生意気なことをJoanに言って,後から調べてみたら,これが英国の児童文学作品に基づくということで,自分の児童文学に対する知識(もしくは教養)の欠如と,ジブリのオリジナル映画ではなかったことと,で二重の衝撃を受けてしまった。Joanが言っていたのは,ジブリは,ヨーロッパの人たちにとっては,「ディズニーではないアニメ」なんだよね,ということ。「千と千尋の神隠し」なんかはみんな好きだが,でも,八百万の神,のようなことは一神教文化に育った人にはわからなくて,何か素敵な感じがするけれど,ほんとうの意味ではよくわからない,というものだと思う,といったことを話してくれた。「ブレンダンとケルズの秘密」を観終わったとき,このJoanの話がすぐに思い出された。私たちは,この映画を観ても,キリスト教文化圏の聖書・修道院起源の図書および図書館の伝統の意味をほんとうにはわかっていないのだろうなあ,と。
 私は,数年のうちにサバティカルに出たいと夢想するようになって久しいのだが,アメリカの図書館情報学大学院には,iSchoolのような情報学に軸足を移していこうとする動きが目立つが,いっぽうで,book art(図書の芸術,技巧,作品)への関心を改めて深めようという動きもあるような気がする。というのは,図書というものが,懐古的なメディアになりつつあるということなのだろうが,それだけでなくて,これからの時代,あえて「図書」という形態で出版するというとき,その手触りや重み,表紙の美しさ,フォント,レイアウト等々が,図書なりの印刷物がマスメディアとして出版されてきた時代以上に,こだわりをもって選択されないと,その「あえて」のメディアの選択を他者が理解してくれないだろう,ということがあるのだと思う。今,まだ日本では,出版点数はそれほど減っていないと思うが,業界としては大変厳しい中で出版点数が維持されているということは,一点一点の図書の質は下がっている可能性があるわけだよね。しかし,遅かれ早かれ,(コミックにとどまらない)電子書籍の普及は日本でも起きるのではないかと私は思うのだよねえ。そのとき,特にハードカバーで本を出すという文化を残すということになると,図書というアートを見つめなおす必要が出てくると思うのです。そう考えると,information managementのことを学びに行くのもいいけれど,book artのことを学ぶのもいいなあと思われて,私個人は懐古趣味的なところがあるので,book artの方がおもしろく学べそう,となるとヨーロッパという選択肢も…などとぐるぐると考えてしまうのだが,はてさて。
 そういえば,最近,他に観た映画に,「ローマ法王になる日まで」があって,南米の歴史に俄然興味が湧いてきて,とりあえずと思い,『教皇フランシスコ キリストとともに燃えて:偉大なる改革者の人と思想』という本を購入して,読みはじめてみた。一人の人を通して,アルゼンチンの戦後史をここまで知ることができるものかという感じの激動ぶり。いっぽうで,別の伝記,いや,自伝ですが,も最近,読んだ。『エフゲニー・キーシン自伝』。こちらからは,ロシアの戦後史の一端を知ったように思ったが(キーシン様は私と1歳しか違わないはずだが,なんと濃厚な人生を歩んでいることよ!),同時に,特に幼少期の彼の周囲のロシアの人たちの気質というか,愛深さというのかな,それをしみじみと感じましたわ。ロシアの人びとのこういうあたたかさはほんとうに好きだ,と思うと同時に,子どものころ,ロシアの民話,児童文学をやたらと読んでいたのを思い出し,自分の一部がロシア文学によって形成されているような気がしてきた(笑)。改めてトルストイの民話でも読み直すかな〜

SPL2016公開

 今年度の本学司書課程紀要を学術リポジトリこちらに公開しました。手前味噌ですが、充実の内容になったと思います。特に、巻頭の二つの特集(公開講演会記録)は、必読ですわ。日本語訳もありますからねっ。
 アメリカからいらしていただいた、キャロル・ダンカン(Carol Duncan)先生の「A "New Museum" and a "New Library" a Century Ago: The Career of John Cotton Dana, Radical Democrat」は、アメリカ文化史研究としても読み応えがあると思います。あの格調高い講演、聴いていただいた方もいらっしゃると思いますが、今、思い出しても、ちょっと準備は大変だったけれど、やってよかった!と心の底から思った公開講演会でした。
 続く、スペインのバルセロナからいらしてくださったジョアン・ポルテル・リフ(Joan Portell Rifà)先生の「La literatura i les biblioteques per a nens i nenes a Espanya: Una petita introducció a la història i a les noves tendències de la lectura」は、アニマシオンを通してスペインの読書に関わる活動に関心をもっている方が少なくないと思いますが、その背景を理解するのにとてもいい内容だと思います。正直に言って、日本のアニマシオンの運動って、スペインの状況からあまりにもかけ離れているよ。日本版アニマシオンとしてもう別物なのじゃないかとすら私個人は思っておる。オリジナルと違うから駄目だということもなかろうが、、、
 その他、アメリカその他、世界に広がるオンラインでの図書館情報学教育について、数本の論考あり。あっ、今年、IFLAが開催されるポーランドの図書館の見学記もあります。ぜひご覧ください。

『われらの子ども』

 もう20年以上前のことになっているが、教育学をやっぱり学びたいと考えて大学院に進学した(学部時代は国文学を専攻していたので、専攻を変えたのだ)。そのときに漠然と考えていたのは、親とは違う関係性で子どもと関わる存在になりたい、ということであった。また、関係性が出会った時点で明確にされていない関係がよいなとも思っていた。例えば、生徒と先生、といった形ではなく、ということである。社会の制度化が進んでいるので、人間関係も制度を前提にすることが一般化していて、そんなことは難しいのだろうなということはまあ、言葉にはならない理解としては当時からもっていた気がします。かつ、経済的自立というのも課題としてもっていたので、結局、教師業に就いてしまった。でも、人生で出会う、親ではない、年上の人間、が私が第一に自覚している学生との関係ではあり続けています。
 いっぽうで、尊敬する鶴見俊輔先生が、『教育再定義への試み』(岩波書店, 1999)を出版したとき、教育のどこを論じているかと思ったら、母親との関係からはじまって、ご自分の経験に基づいて語ったという形式のものだったので、これが教育に関する本か、となんだか拍子抜けしたのをしばしば思い出す。タイトルに「教育」という文字を見つけて自分は何を期待してその本を手に取ったのか、ということも考えるし、親との関係が人に一生つきまとう教育の根本だということが鶴見氏が晩年に考えたことなのだなあ、ということもずっと抱えている。
 この春に観た3本の映画で、この後者、親との関係ということの大きさについて改めて考えさせられた。それは、「The Accountant」(邦題ザ・コンサルタント)と、「Captain Fantastic」(邦題はじまりへの旅)。そして、かの有名な、Forrest Gump(フォレスト・ガンプ)。
 『ザ・コンサルタント』は、国際線に乗るたびに観て、結局3回半くらい見てしまった。銃による殺人のシーンが山ほどあって、銃声がものすごい音量なので、本来、私の好きなタイプの映画ではないし、観るはずがないものだが、ベン・アフレックね(嫌いじゃない)と思い暇つぶしに一度観たら、あまりに印象的で、英語ですべてを聞き取って理解できないものかと繰り返し観てしまった。この主人公はアスペルガー症候群なのだが、母親と父親が育て方について意見対立をしてしまい、結局、父親に徹底的に(父親がしかるべきと思う方向に)矯正するような形で育てられる。実際には、この主人公の描写はアスペルガー症候群の特徴とは言い切れない部分がいくつもあるようだけれど(英語で検索するとそういう議論が出てくる)、もちろん、アスペルガー症候群の人間が全員いっしょなわけもなかろうし、あまりそこにこだわらなくていいのではと思っている。発達障害の子どもを、いかに育てるかという問題提起もしている映画だと思った。
 『はじまりへの旅』も、これまた相当エキセントリックな親の話で、そうなのだけれども、なんというか、アメリカ社会のよくいるハイソな親、家庭との対比がすごく興味深いのです。妹の家庭とすらまったく会話が成立しないような状況になっていて、お互いの子育てに口を出せない、出そうとしたらもう大喧嘩になるというような、そういう状況の描かれ方がコミカルなのだが、もんのすごいリアリティがある。今の日本でもそこかしこにありそうな話だ。子どもは親を選べないとはよく申しますが、改めて、そうなんですね〜。でも、エキセントリックな親だけど、不幸な家族じゃ、ないんだよね〜。そこが、俗に身をおきながら見ている側(私)からすると、ツライというかなんというか。それに、この家族、エキセントリックと言って、学がない家庭じゃない。そうじゃなくて、ハイカルチャー志向で、エキセントリックなのです。そこにも、考えさせられる。
 でもって、フォレスト・ガンプ。テレビで再放送を偶然見かけ、雷に打たれたかのような衝撃を受け、後半ずっと泣きながら観てしまった。なにがこんなに今の私に衝撃を与えたのかと思い、数日後にもう一度、はじめから観てみた。ひとつはこの時代。ジェニー(Forrest's MY GIRLですな)の墓石を見ると、July 16, 1945 - March 22, 1982とあって、戦後直後の生まれであることがわかる。戦後のベビーブーマー。この世代が青春時代に経験したことがずっと描かれているわけだけれど、歌手になろうとしてみたり、カリフォルニアに行ってヒッピーになってみたり、と彷徨うジェニーの生育歴がほんとうにつらいものであることに、今回、改めて気づいた。ヒッピー仲間たちも荒んでる(UCLAのエリート学生だがDV男なんてのも出てくる。彼の生育歴も気になる...)。しかし一番、私にとって泣けたのは、"I am not a smart man, but I know what love is."というシーンと、"Is he smart or..."というシーン。彼が、みんなにsmartではない、というレッテルを張られ続けたことにいかに傷ついてきたかがわかる。ジェニーに求婚して断られる流れで、また子どもが生まれていたことを聞かされたとき、彼の口をついて出てくるのが、"smart"かどうかということなんだよね。ただ、彼が、母親の愛情に関しては、疑うことが無かったというのが救いなのでしょうね。。
 
 まあ、そういう映画を観て、アメリカの現代、そして戦後の社会や教育について軽くですけれど考えていたら、ものすごい本が届いてしまった。それが『われらの子ども:米国における機会格差の拡大』(創元社, 2017)Our Kids: The American Dream in Crisis)であります。前フリが長くてすみません。
 この本は、以前もこのブログでご紹介した柴内康文先生の新しい翻訳書で、原著者はパットナム(Robert D. Putnam)です。このパットナム先生は1941年生まれで、フィクション(映画)といっしょにして語ってよいかわかりませんが、フォレスト・ガンプたちとまあ、同世代?で、フォレスト・ガンプの中で、アラバマ大学への初のアフロアメリカンの学生の入学、ベトナム戦争ワシントンD.C.での反戦集会(1960年代)、ウォーターゲート事件(1972年)なんかが描かれているが、つらいできごとばかりに見えて、カウンターカルチャーもエネルギッシュで、どこかに楽観的で昇り調子の雰囲気が漂う(あくまでも私の見方ですが)。そのような、1940年代前半生まれくらいの人たちの青春の時代を経て、1970年代以降、アメリカ社会がいかに平等化傾向から格差拡大傾向に転換し、今や富裕層と貧困層の分離とも言うべき状態にまで進行していることが、『われらの子ども』では、ライフストーリーの聞き取りの分析と各種の統計や先行研究の整理によって示されている。
 正直に言えば、1980年代後半にアメリカにはじめて滞在したとき、ボストンの都市部で白人のホームレスを見かけたのが印象的だったので、アメリカ社会は(人種というよりも)貧富の差があるのだ、と頭に植えつけられてしまったいた感じが私にはある。とはいえ、白人の多いアメリカの図書館関係者の中で、たまにアフロアメリカンの人に会うと、けっこう赤裸々に自分たちの受けている差別の実感を語ってくれる人もいて、また、唯一、ノースカロライナ州が私が訪れたことのある南部なのだが、ここでは、主として白人が通う大学、アフロアメリカンの通う大学が今もあってということを目の当たりにして、人種ということを抜きにアメリカ社会を見ることはできないということも、図書館関係者のような概してリベラルな人の集りでアメリカ人と出会ってきた私にもわかってはいたつもりではある。『われらの子ども』では、しかし、人種というよりも、あえて、階級、という切り口で現代アメリカ社会の分離を明らかにしている。この「階級」というのは、多くの日本人には驚きかもしれないが、親の教育水準である。上層中間階級=四年制大学の卒業生(とその子ども)、下層もしくは労働者階級=高校より先に進んでいない親(とその子ども)と分けて、両者の分離されたアメリカ社会を描き出している。インタビューの記録が多く、かなり生々しい。
 ただ、「『われらの子ども』のストーリー」(p.293-308)では、この本の中心となるインタビュー調査の背景が明かされているのだが、なんだかこう、そうかー、同じアメリカ人でもここまで労働者階級が見えなくなっているのか、と感じさせられる記述が散見されて、なんだかほんとかなあと。読み手になにかの配慮しているのか、それともほんとうに新たに知って驚いて書いているのか。だいたい想像のつくようなことが、新たな発見だったかのように書かれている感じがするところがあるのだよね。例えば次のような記述(「ジェン」とは調査実施者)。外国人の方が、こういう経験が理解しやすいということなのかなあ。それとも、社会学のインタビューの分析って、あたりまえ、を排除した記述法が必要ということかもしれないかなあ。

若く、黒人で、労働者階級であるということがどういった感じなのかをわれわれが一瞬で知ることになったのは、ミシェルがジェンとともにクレイトン郡を注意深く運転していたときのことである。彼女は軽微な違反で警察に止められることを恐れ、また荒っぽい近隣地域の危険をジェンに警告してきた。

 ところで、この本には、司書、図書館がポツポツと出てくる。パットナムは、Putnam, Robert D. and Lewis M. Feldstein. Better Together: Restoring the American Community. New York: Simon & Schuster, 2003.の第2章で、シカゴ公立図書館ニアノース分館が、貧富の格差のある 2つのコミュニティの境界に建設され、両コミュニティー社会関係資本醸成の場となったという話を書いている(この本は日本語訳が出版されていないのが残念)。図書館の社会的な意義について理解のある社会学者なのだ。今回の本では、インタビューで、スクール・ライブラリアンが前向きで勇気を得るような助言を与えた話が複数、紹介されている。図書館が視野に入っているのだなということは全編を通して感じたのだが、笑ってしまったのが、社会階級についての説明で例外として、「例えば教育水準は高いが給料の低い図書館司書、あるいはほぼ無学の億万長者」(p.55)と書かれているところ。この2つの例示の対比!いや、笑いごとではないですね。まあ、世界共通の図書館関係者の悩みであり、ここは図書館専門職に関する分析のしどころでもありましょう。
 巻末の「訳者解説」(p.315-327)は私のこの本の理解を進めてくれてありがたかったのですが、特に、「各章のテーマとインタビューの登場人物」の表(p.318)は、著者たちが作らなかったのはなぜなのというくらい有用。特に社会学や教育学等の先行研究と関連づけて議論するあたりになってくると、各章のインタビュー協力者の名前が入り乱れてくるのだが、これだけ厚い本だと、えっとこれは誰だったっけと思い出すのに、私程度の能力の人は一苦労。この表は使えますので、秘密兵器として(?)、みなさんにお教えしておきます(笑)。
 日本でも、教育はどんどん、私事化してきていて、他の家庭の教育を覗くこと、ましてや意見することなんて、できなくなっていると感じる。親によって、『はじまりへの旅』のそれぞれの家庭があまりに違い、意見交換もできなくなっているように。ただ、パットナムは、アメリカでは、家族以外の大人が「助言者(メンター)」となり、「実際知(サヴィ)」を与える事例があること、といっても上層階級の子どもの方がずっと多くを得ていることを指摘している(p.240-244)。私個人は、ここがアメリカと日本は違うんだよなあ、というところ。家族ではない他者に出会わせよう出会わせようとする、というベクトルが、アメリカの(上層階級の)親にはあるのだよなあ。日本の教育熱心な親たちには抱え込みのイメージをもっているが、気のせいか、被害妄想か?
 大部の本で、気になるところがたくさんあり、短時間で書いて紹介しようとしてもまとまりませんが、アメリカだけでなく、日本の教育を考える際にも新しい切り口、視点を提供してくれると思います。翻訳の質も信頼でき、読みやすいです。こういう翻訳ができる人間になりたいものだ。。。